河口通事
○清官閲舩
 進貢舩、福[福州」に至れば、清人出でて方物・舩を閲す。是れを名づけて河口通事と曰ふ。河口はfの地名なり。其の「琉客談記」に河口を川口と
あやまり
作りしは謬 なり。通事の舩を閲したる後、海防官が再び之を閲す。海防官は通事に比べて禄秩頗る重し。然る後、清人の前導にて琉館に入るなり。
(「琉球録話」、清官閲舩)
○琉人の肖像画を支那に送る。
 同書[例寄三集巻十]に「唐より御用の琉人の図持渡差出候段云云」のことがあって、沖縄人の風俗を支那で調べられたことがある。これは乾隆三十一年撫院より琉人の絵図御用があったから河口通事相談の上海防官御取次で差し上げたと書いてある。(乾隆三十二年丁寅)(「真境名安興全集・巻三」九十頁「笑古漫筆」)
○[毛慶選]
 嘉慶十二年[一八〇七年]丁卯十二月、冊封の事の爲に、
はじ
署河口通事に充てられ、本月より起めて毛廷器兼
本里之子親雲上・蔡次九我謝親雲上に從がひて書、華禮を學ぶ。・・下略・ (「那覇市史・家譜資料二(下)七二六頁)
○北京に赴く各朝貢国の使節には、それぞれの国の言葉を解する中国の土通事が同行した。琉球朝京使節の都通事がたとえ中国官話をよく話しても福州からは必ず土通事が同行し、皇帝謁見の時には伝訳者となった。福州の土通事はまた河口通事とも呼ばれ、中国冊封使の随員としても来琉した。福州城外の琉球館近くの河口(地名)の人びとはよく琉球の官音(那覇か首里の言葉であろう)に通じていたため、福建省政府は定員三名として試験で選抜した。琉球館で執務し、その任務は土通事として朝京使節に同行するほか、福建の各衙門との連絡、また琉球船が漂着した時、現地に赴いて通訳するのが主な任務であった。(23)
  [註](23)『福建省例』第八冊(台湾文献叢 刊第一九九種)の参照資料。
(「近世琉球国朝貢使節」平和彦『南島〜その歴史と文化〜5』二五〇〜二五一頁)
○琉球館の把門官(門番)詰所及河口通事公事所の普請についての要請書(参照:存留通事、柔遠驛)
つめしょ あ
○琉館屋把門官詰所、相い破られ候に付き、同所
まで ふ し ん
并びに阿口通事公事所迄も普 請仰せ付けられ候段、

存留普久嶺里之子親雲上より別紙の通り申し来し候間、此の段申し上げ候、以上。
 辰五月(甲辰:道光二十四年、一八四四)
    足長史
    奥間里之子親雲上
    長嶺通事親雲上
    百名親方
○上覧に備ふ。
琉館屋把門官詰所相い破られ候に付き、去去年よ
あ ご ざ なくそうろふ
り普請願い仕り候へどもお取り揚げ御座無候、去年に到りては、接貢船渡唐の上、把門官詰所崩落し、相公ども住居の所これ無き候に付き、此の節
かな
普請仰せ付けられず候ては叶はざる事にて把門官
まで
詰所并びに同所右表へ阿口通事公事所迄も普請仰せ付けられ候様、把門官より布政司・海防官へ普
よし
請願い申し出でられし由にて、琉球方へも願い奉
も たの
り候様、把門官より阿口通事を以ってお頼みこれあり候に付き、勢頭・大夫御案内の上、願い奉り
いよいよ それ
候処、弥 、願い通り相い済まし候段承り候。夫より把門官詰所普請取り付け、右表へ阿口通事公

事作り調へ候。入り目両銀の儀は、布政司より成
くだ よしうけたまわ もっと
し下さるる由承 り申し候。尤 も阿口通事所壱軒長さ五間・横弐間作り置き候次第、表御方へも
よろ よう  と はか おお くだ
宜しき様お取り計らい仰せあげられ下さるべく候。
さよう おこころえ と あ いた
左様 御心得られ、此の段お問合い致し候。以上。
 辰四月廿六日(甲辰:道光二十四年、一八四四)
普久嶺里之子親雲上[進貢存留通事金邦俊]
怱役
 長史