牙行
○福建に於ける私貿易は官設の牙行を介して行はれた。福建市舶提擧司志に牙行は原二十四名設けられてゐたが、嘉靖三十年[一五五一年]代には十九名を裁革して五名存したといふ。牙行による取引きは大體ン買[掛けで買う。掛買する「大漢和辭典」]であって、購入すべき商貨の數量・値段を取決めの上で、購入を委託する。代償物を先に交付する場合が尠くないから、彼我の間に釁端゙醸[釁端:あらそいのいとぐち。゙醸:色々手をまわして人を罪におとし入れる。轉じて無實の罪を捏造するをいう。ー「大漢和辭典」]の機会が多い。永楽二十一年[一四二三年]の使船が歸還に際してf
縣高恵里の民二人、長楽縣方民里の民一人に寳鈔四五〇〇貫を騙掠されたといふが、此三人は多分牙行である。牙行の制は清代も同じく、現在其裔楊某は同地に棲んでいる。(「中世南島通交貿易史の研究」三二一頁)
○水部門外の河口、進貢廠の南に在り。明初建つ。外國の使臣の館寓の所と爲す。
(「欽定古今圖書集成M職方典七福州府部」九三二五)
○琉球から福州に持ち来った朝貢品と交易品のうち、交易貨物は福州商人によって売り捌かれた。
ヤーハン
この琉球貨物を扱う中国商人は官許の牙行で、琉球館(現在の地名表記は福州市水部門外ツ后街十
スイッチ
号、館はすでに取り壊されて、福州市第二開閉廠となっている)付近の太保境には一軒の牙行があっ
シージャーパン
て、土地の人びとはこれを「十家幇」と呼び、同
R
業組織である「球商会館」(福州市紅色小学校校舎として現存)を設立し、琉球貨物を売り捌くほか、琉球の渡唐銀で購入希望物資を買い付けるた
S
め蘇州および広東などにも出向いた。そして朝貢品のうち硫黄(一万二千六百近)は福州の中国官庫に搬入され、その他の貢布・紅銅・白剛錫などは朝京使節とともに北京にはこばれた。
R朱振声「従福州的幾処古跡看古代中琉関係」
『海交史研究』第三期、一九八一
S『林則徐集ー日記』北京、中華書局、一九 六二年刊、アヘン取締まりのために道光十九 年(一八三九)広東に着任して間もなく林則 徐は福州の家族に手紙を書いており、同年一 月二十六日の条には「・・・夜作家書一封( 己字第二号)託福州琉球館客商信局帶f」と ある。杭州・蘇州には糸貨を購入するために 牙行がよくでかけるが、この林則徐日記によっ て琉球館出入りの牙行が広東にも行っていた ことがわかり、また私設郵便局である信局を も兼ねていた。
(「近世琉球国の朝貢使節」平和彦『南島〜その歴史と文化〜5号』昭和六十年、南島史学会)
○中山王世子尚質より世祖あて勅印の給賜と牙行の積弊を除くことを乞ふ上奏文
琉球國中山王世子尚質、謹しんで奏す。勅を發
以前から
して印を賜わり以って帰順を励まし、勅もて夙 の
弊害
の弊を禁じて、以って懐柔を広くせられんことを
こいねが
懇乞ふことの爲めにす。
ふ おも 天子が天下を統治するこの御世 遠いあれはてた國
伏して以ふに御宇 は、遐邦荒裔も帰
誠せざるはなく、臣たる尚質の如き海外の小國な
天子 道 ふか 大き 小さくかすか
るも、寳の倫は重く賁ければ、渺微 なる[尚質]を
す も みず 天子の教化 蒙る
棄てず、臣たる尚質をして以って躬から聖化 を沐
ますます やわ 慕い来る
を得さしめたれば、益 暢らぎ懐来するものなり。茲に重臣を遣わして明朝の勅書弐道・印信壱顆を
もた 返還
齎らしクせしむるなり。
ひそ てらしみる
窃かに照 に、本國は參拾六島ありて、一切の
必要 久しく打ち捨てて行なは行事は必ず印信を需とすれば、以って久曠
ない ふ こ
し難し。伏して乞ふらくは、勅を發して鑄印せしめ、臣の王舅馬宗毅に賜わり帶回せしめ、異邦の
臣 下 ほめたたえ
臣庶をして天朝を之れ尊ぶこと有りて而して頌
あがめ奉る きわまりな
戴することの窮 無きを知らしめられんことを矣。
ここ お願い申しあげ こと
茲に更にコ陳 する者あり。臣の入貢するには、本國より船を發するは則ち冬春の北風を以ってし、
もち
歸國するには必ず夏至前後数日の南風を須ふるな
風模様 不好都合 危険
り。此れを過ぐれば則ち風ケは不便なれば 、険を
つ がた さき
衝きて行き難し。前の貢船が入fするに、土産・銀兩を随帶し、糸絮・布帛等の物を貿易す。明初
好都合 ゆる すべ 抑 制
は便とする所に従うを聽し都て抑勒することなし。
およ ごろつき 悪事 な たのみ
晩季に至るにサび地棍が奸を作し、郷官に倚藉し
牙 行 種々の[貨物を] 言 語
て都牙を設立し各色 評価せしが、音語 が通ぜざれば[貨物の値段の]低昂は[牙行の]意に任せれば、常に
もって
糸綿を用て指して禁貨と為し、効順の屬國[の琉球]を
取り締まり まるめこめ
ば律 するに倭奴を以ってし、吏胥は[地棍に]播弄
ひきとめて難題をぶっかけることを
られ、[琉球人を]留難 すれば、[琉球人は吏胥に]
あらゆる方面 与える 銀 ぬきと
万端 に銀貨を致すを以って白をば之れを抽 られ
むな つなぎとめ
て手を空しゅうし、官司は[琉球人を]縻繋 すること風
時期はずれ およケの非時 に至ぶれば、人船返らざるなり。崇禎末
溺 死
年より數船を失去して淹死するの官伴數百餘人な
いわ
り。之れを言ふに酸痛となすべし。矧んや、今、
厳 重 軽 率 おそ の
國憲は森嚴なるをや。冒昧なるを惴れず情を゚べて入告[上聞に入れる、申しあげる]するものなり。
伏て乞ふらくは、皇上、勅もて従前の積弊を禁
ごろつき 役所の臨時雇用員 だましとる 遮り止める
じ、棍徒・衙蠹 が詐騙し、阻滞 して歸朝を失
満ち
うを致すを許さず、且つ、今沿海の盗賊がfに充
あふれ
斥 してf安鎭より外は則ち大海に屬し、鎭は則ち
内港に屬すれば、貢船の到るの日には、鎭外に抛
ただち
ち難ければ即に鎭に進み内港に湾泊して安挿する
待 つ まぬか
を聽候ことを准るして、盗賊の虞れを免るるに庶かからしめられんことを。此の如くなれば、則ち
ますます
遠人は益 懐柔に服し、而して來貢來朝すること、以って千萬年を歴るも絶へざらん。
おそれふるへ
臣、悚慄 て命を待つの至りに絶へず。此れが
た もた爲め、具本して陪臣王舅馬宗毅等をして奏を齎らしめて以って聞す。
順治十年二月二十七日、琉球國中山王世子尚質謹んで上奏す。(「那覇市史・歴代寳案第一集抄」を参照して修正して訓讀)
●「呈稟文集」第十四号文書
具呈す。琉球國耳目官毛天相・正議大夫鄭弘良
ごろつき やぶ も
等、土棍が騒擾するあれば、害を劈り以って國典
あき も いつ
を彰らかにし以って遠人を柔くしまれんことを天
うっ
にケたへることの爲にす。
せつに思う よしみを通ずる くだん
切 に、相等は天朝に納款 して、所有の官
これまでの例
伴水稍が随帶の銀兩をば、歴例 にては、絲布・
さ 事柄
雜物に兌換す。向きの縁故は明の末年のことなり
ごろつき むさぼ 手ずる・術策
しが、奸棍が利を嗜 らんがため鑽 もて牙行を
設立 いろいろ おどし
立したれば、各色の横、種々の擾害に遇ふこと枚挙すべからず。
順治十年[一六五三年]間に至りて、弊國主、世祖章皇
業 さま つぶ
帝に具奏して、牙行の端を害たげることを備さに
申し述 申しお ことごと
陳 べたれば、勅をば福建に行 くりて尽 く前弊
あらため除ぞか
を革 しめ、會同館の事例に照らして館夫を設
あき よりどころ
立するを蒙れり。案冊の炳らかなる拠 あるも、
おも 弊害
意はざりき、事の久しければ、弊の生ずるを。
だしぬけに
康熈二十三年[一六八四]八月の内、突 として、三
はか あ すで さき
人ありて、謀りて館夫に充てられたり。經に前の
つい す な存留通事蔡應祥は知覚して、遂に天を投て主と作
さき 文書をしたためて申し立
る等の事を以って前の撫院大老爺金に具控
て 調べて逮捕 実地に調査
したるところ、査緝 して訪 せしを蒙れること
ちかごろ いず ごろつき案に在り。近 、何れの方の土棍なるを知らざる
[他人の牙行の名義] か [牙行の権利保持者] あ
も影 をば藉りて頂 に充てられた
ごまか な
りと朦混して、大老爺台下に具呈して館夫と作ら
としごと
んこと求むるものあり。切に思ふに、相等、歳 に方物を貢し、貿易するに限りあり。前案には館
夫のことを額に載げありて遵行すること已に久し
面識のなき
きも、今、若し生面 の人を以って、突として驛[柔
いいがかりをつける
遠驛・琉球館]に充入せしむれば、勢い必ず藉端 し
おこ およ かるがる
て事を生し、害に貽ぶこと軽 しくは已まざるに
事情 述べ
あらざれば、情を瀝るものなり。
お願い申します
大老爺[布政司]に仰叩 するに、相等の海外の使
配 慮
臣が國の爲めに奉公するを垂念せられ、前案を査
参照:冒充
察して、嚴しく禁止を行なひ、額外の冒充[他人の名義をかたりて牙行の権利を行使すること]を許さざらんことを。併びに、
こいねが
懇 はくは、兩院大老爺に通詳せられんことを。
報告 ごろつき もぐりこむ ふさ
鉄案を立つるを申し、永く奸棍の營に纉 を杜
がば、舊例を不易ならしめ遠人をば安んずるを得るに庶からん。切に呈す。
したた
康熈三十七年[一六九八]三月 日。呈を具 めたる琉球の耳目官毛天相・正議大夫鄭弘良、三月三日に
たて布政司に上まつる。
(「『呈稟文集』について、糸數兼治」記載の原文をもとに訓讀)