○官と吏
 官とは国家の任命する正式の役人で、その職階
は一品から九品まであり、たとえば尚書は正二品、知県は正七品の階位である。これを流官ともいう。正統の官の意味で原則として科挙に合格した進士から任用される。
 これにたいし、さらに明代では「未入流」といって、正流にはいらない屬僚がいる。もちろん国家の任命ではなく、登用資格もいらない。国初のころは、罪過のない農家の子弟で年齢は三〇歳以下、書算のできるものというたてまえであった。この吏は上は中央の本省から下は地方政庁にまで存在して、その数は莫大にのぼり、地方の末端の県庁だけでも二、三00人から一000人はいた。かれらは各部局に配属され、これにたいしては、それぞれ吏頭がにらみをきかしていたのである。
 ここまではかくべつかわったことはないが、官と吏とではつぎの二点で大きく違ってくる。第一
に、官には俸給が出るが吏にはビタ一文給料が支払われないことである。もっとも吏頭だけには最高額で月俸二石半が渡された。それにしてもおどろくべきことである。全国にして吏の員数は何十万か何百万か正確にはわかりかねるが、ともかくたてまえはただばたらきということになる。
 第二は、官は三年ごとに勤務評定を受けたのち任地をかえていく。地方官の場合は回避の制といって自分の故郷には赴任できない。いわば浮き草稼業である。それに官は皇帝の臣下であるから、官職上では上下の差があっても、身分的にはおたがいのあいだで隷属関係はない。”官に封建なし”とはこのことをさす。
 これに反して、吏には転任はなく、地方では土着人がなる。しかも徒弟制度であり、親子兄弟が代々その職を継ぎ、職権は一種の「株」と見られ、奇妙にも売買の対象にすらなる。”吏に封建あり”
といわれるゆえんである。
 このように官と吏とは住む世界を異にしている。吏は大地に根をおろした不動の組織であり、官はその上に咲いたあだ花にすぎない。したがって、おそらく官は、王朝とともに交代するが、吏のほうは王朝の変動にもなんの影響も受けず、泰然として王朝を送り迎える存在であったともいえるだろう。
 だとすれば、無償の吏はどんな経済手段で生活していたのであろうか。そのからくりはかくべつかわったことはなく、治下の人民から思いのままに税をとりたてていたのである。その名目としたものは租米の場合は納米の目べり高、銀では小粒をとかして銀塊とするための手数料などである。それに戸籍や土地の登記料、訴訟など、材料は無限にあって、しかもどれもが吏のさじかげんひとつできめられるので賄賂がそれを大きく左右するよになるのも当然であっただろう。このように実際的な行政、司法の事務はことごとく吏が処理し、官のほうはただ人々との交際にあけくれた。といえば体裁がよいが、任期三年のあいだにできるかぎり吏の私的な徴税のピンはねをしたのである。官は、このようにしてその薄給とはうらはらに莫大な産をなしたものであった。銀納制が熱望されたのは、コメよりは銀のほうがとりやすくかつ、貯蓄性が高かったからである。これでみると、ただばたらきの吏とは、じつは人民から直接その血
肉を搾取する機関であったことがわかるだろう。これを明の学者は「百万の虎狼を民間に養うもの」と痛罵している。
 ところで、地方の吏はその上級の吏につけとどけをし、それらはまたさらに中央本省勤務の吏に贈られた。吏は、それ自体が天下に網の目をはりめぐらした厖大な組織だったのである。顧炎武が「いま、百官の権を奪って、すべて吏に帰した。百官とは虚名にすぎず、国を支配するものは吏である」といったのはこのことをさす。天下にひびいた吏閥のなかに、浙江省の紹興出身者がいる。
シャオシンイエ
「紹興爺」とよばれ、かれらは六部を牛耳り、とくに戸部一三司はその掌握するところであった。これも明末の有名な学者陳竜正のことばだが「天下の治乱は六部にかかっているが、その六部の胥吏はすべて紹興人である。されば紹興こそは天下の治乱の根本である」というのがある。いささか大げさだが一面の真実はあろう。ともかく官を清流とすれば、官宦とはまた別の意味で、吏も濁流であったのである。(『世界の歴史』「明と清」一四二〜一四四)