冠船
○冠船渡来時の諸取締
近代尚温王のときの冠船渡来時の諸取締のことが、例寄六集巻十三にあるものを見ると、中々微に入り細を穿ってゐる。その大意を列記すると、
 一、無理なことがあっても堪忍せよ。
一、唐人を指して談笑してはならぬ。
とりあい
一、唐人拘置の傾城と取合してはならぬ。
一、練芭蕉の衣装を著てはならぬ(唐への献上   品であるから)。
 一、王子衆以下黄色の衣装を著るな(高貴の人   に限るから)。
 一、白巾白帯をするな(唐は忌引きのときにす   るから)。
うたい
 一、謡又は大和歌、琉歌もするな(大和交通を   忌避するため)。
ふくろそで
 一、袋袖 をするな(大和の風俗なるが故に)。
 一、はやふさを隠せ、うづらを見せるな(不明) 一、唐人より米野菜肴(魚)を買ふな。
 一、官斗公斗を用ゐよ(琉斗升は宜しくない)。
 一、反故紙をすてるな(道教思想)。
 一、和書を見せるな(大和交通遮断のため)。
 一、女袴下著に裙を上から著けること。
 一、士方女中は足袋をはくこと。
 一、赤ナ衣を著るな(傾城と間違はれるから)。 一、男はまわしするな、袴をつけよ。
ひげ
 一、鬚を切ってはならぬ(回回教と嘲笑される   から)。
などがある。要するに唐の風俗に似せて彼等に同化の実を示すことゝ、大和人との交通を隠蔽するのが重なる仕命であったやうに推察されるのである。(真境名安興全集・巻三」七十三〜七十四頁「笑故漫筆」)
○冠船渡来時の費用出銀出米
 国王一代に一度しかない冊封使の渡来即ち冠船渡来のときの諸費用は巨額に上るのであるから琉球政庁においては五年前より、これが準備をやったといふことである。例寄二集巻十四によると、乾隆十六年辛未(宝暦元年、一七五一)の日記に、冠船渡来の諸手当として諸士百姓ども人別に「来る申年より子年迄五ケ年間」出銀や出米を仰付けらるといふ令達が出てゐる。その一例を示すと、
 一、知行高壱石に付出米壱升八合(大美御殿御   知行除くとあるから、その他は一律に課せ   られたと見える。)
 一、男女一人に付出錢壱貫五百文づつ(出家、 御城女房、鳥島人を除くとあるから、その   他は全部課せられたやうである。)
 右の外にも民間の有福者から借金借穀や寄付金の勧誘があり、又薩州からも巨額の借銀があったやうである。当時久米村の島持人数が六十一もあったといふから、首里には多数の知行持ちがゐたのは申すまでもないことである。
(「真境名安興全集」第三巻七四頁「笑古漫筆」)