欽天監
○元代に司天監(はじめは司天台と称した)と呼ばれ、明初にもこの名で呼ばれたが、一三七〇年に欽天監と改められ、清朝がその名を踏襲した。天文観測・修暦・時間の測定などを司る役所。明代には一三九八年以降、天文・漏刻・大統の三科
のほかに回回科が設けられ、中国伝統の暦法である大統暦法に元の時に中国に来入したイスラム暦法を加味して暦が作成された。清朝ははじめこの体制をそのまま採用したが、大統・回回両暦法ともにしばしば誤測を繰り返したので、アダム・シャールを登庸して暦本を作製させることになり、結局シャールは一六四四年十二月に欽天監の印章の掌管を命ぜられ、一六四六年七月は正規に欽天監の長官である監正の職に任ぜられた。この年回回科はこれまでのように自己の推算の結果を奏進しなくてもいいことを申し渡され、一六五六年には回回科の中心人物である呉明ヘは秋官正(暦本編成にあたる官)をやめさせられイスラム系天文学者たちは全く窮境に立っていたのである。そこで一六五七年呉明ヘはシャールの推算によるとこの年の二月と八月には水星が見えないとしているけれども自分の推算では見えることになっている。
シャールの推算は誤謬であるとして欽天監回回科
の機能の復活を請願した。順治帝は各大臣を天文台である観象台に派遣して観測させたが、結局水星は見えなかったので、明ヘは処罰された。このようにして欽天監をめぐるカトリック宣教師とイスラム教徒の争いは表面はいかにも学問上の争いのような形をとってはいるが、内実は過去何世紀にもわたってユーラシア大陸の各地で演ぜられてきた両者の葛藤がこの問題をめぐって火を吹いたものといえよう。清代の欽天監には満漢各一名の監正と満漢各一名ずつの左右監副がある決まりであったが、道光六年に西洋人の任用を廃止するまで、監正には満人と西洋人を併用し、監副にも西洋人を採用した。この年まで時憲暦・時憲書と称せられた暦の科学的部分は事実上西洋暦法によって作成されたと見られる。(「康熈帝伝」別注五五「東洋文庫・平凡社」