軍機處
○雍正帝は清朝の宿敵たる西北準喝爾部との間に新しい衝突が起ったので、宮中に臨時に軍需房なる参謀本部を設けた。清史稿軍機大臣年表によるとこれは雍正七年六月癸末のことであり、怡親王と、内閣大學士張廷玉、同蒋廷錫の三人が密辧軍需事宜に任ぜられている。後に雍正十年これが辧理軍機處と名を改められ、その大臣も辧理軍機事務と稱せられるに至った。この軍機處の任務は西北軍務を處理するにあるが、その處理の仕方は、雍正帝の奏摺政治と題本政治との中間を行くものである。即ち前線の將軍からの報告は奏摺の形式で乾清門にある奏事處から天子の手許へ届けられ、通政司をも内閣をも通さない。ただ普通の奏摺だと天子一人が披閲し、一人で處理するが、西北軍務の奏摺は軍機大臣が相談に與かる。恐らく雍正帝の時から、軍機大臣は擬旨を行っていたと思われる。擬旨とは大臣が天子に代わって、臣下からの奏請について返事の言葉を用意しておくことで、天子の裁決をまって確定的な天子の命令となるのである。この擬旨(または票擬)こそは内閣大學士の職務であったので、軍機處は言わば内閣の分局であったわけである。事實、初期の軍機大臣は概ね内閣大學士の中から選抜されている。
 雍正十三年八月に雍正帝が歿して乾隆帝が即位すると、辧理軍機處の外に總理事務處なるものが置かれ、やがて十月に辧理軍機處が總理事務處に吸収されてしまった。これは總理事務處が軍機のみならず、天下の奏摺を處理する公的機關となったことを示す。間もなくその名稱は再び辧理軍機
處に逆戻りしたが、實質は依然として一般政務をも兼ねて辧理した。そこで従來は裏面的な存在であった奏摺政治がそのまま表面に浮かび上がってきたのである。そして裏が表になると共に奏摺政治も質的に變化してこなければならなかった。それは奏摺政治の法制化である。
 雍正帝の奏摺政治は彼の獨創になり、彼の個性を中心として運營された。奏摺政治には一定のルールがない。雍正帝がその\批諭旨の巻頭に掲げた自序のなかで述べているように、
  この中に兩人が事を奏して朕の批示のフかに  異なる者あり。これは則ち人によりて施し、  材を量りて教うるなり。嚴急なる者は之を導  くに實和を以てし、優柔なる者は之を濟うに  剛毅を以てす。過ぐる者は之を裁し、及ばざ  る者は之を引く。讀者は當に朕の苦心を體す  べきなり。
であって、法則にも先例にも拘束されず、またそれが法則とともに先例ともならず、凡てがただ雍正帝という人格において統一されていたのである。彼の\批は、人を見て法を説く主義で各人に對して各様の教訓を與えていたが、彼が創り出した奏摺政治は、彼が運營している間はそれでよかったのである。
 然るにこの型式が子孫に受けつがれ而も半ば公開されて大臣までが参加することになると、何等かの基準が必要とされ、少なくとも先例が堆積する間にそれが慣習法を形造って行くことは免れ難い運命である。このような軍機處の奏摺政治を法制化して一つの制度に纏めるに與って力のあったのは満人官僚を代表する鄂爾泰と漢人官僚の領袖たる張廷玉との二人の軍機大臣であった。そして奏摺政治は次第に題本政治の分野を侵蝕して天下の政治は内閣を離れて軍機處を中心として運營されるようになった。また奏摺が既に公的地位を獲得した以上は、それが軍機處の擬旨を經て天子の裁可を得れば直ちにそのまま効力を發生することになり、これを奏准と言い、内閣を經た題准と等価値なることを認められた。両者は何れも天子の裁断であるから、後世を拘束する先例となり得るのである。
 奏摺政治の分野の擴大は同時に題本政治の凋落であり、最も重要ならざる報告事項だけが、題本として内閣を經過するようになったが、最後に光緒二十八年に至り、一切の題本は凡て奏摺に改められ、明代から始まった内閣による題本政治が消滅した。これを改題爲奏言う。(「雍正\批諭旨解題」)