箚
○文書の名稱。下行文。宋代に始まり、稱して箚子と為す。機密文書と為す。元・明の両代は改め
い
て箚付と稱う。清代は沿用するも但だ箚と箚付とは区別して使用せり。中央の六部・都察院が奉天
府・太常寺・太僕寺・光禄寺・鴻臚寺・国子監・欽天監・大医院・宝源局・各倉監督に行文するに、都察院が六科に行文するに、六部が布政使・按察
使・城守尉・各関監督・各織造に行文するに、禮部が各省の學政に行文するに、兵部が各提督・総
兵に行文するに、順天府尹が各省の布政使に行文するに、經略が提督・副都統に行文するには、均しく箚を用いるなり。凡そ箚文を接受する衙門は回文するに均しく咨呈の文を用いるなり。惟だ各省の織造・各関の監督が戸部に対して、提督・総兵が兵部に対しては均しく呈の文を用いるなり。 (朱金甫)(「中国歴史大辭典・清史(上)九八頁、原中文)