三跪九叩頭禮
○乃ち其の表奏を進む。(貢使が京に至らば、先
お およ それぞれ
に禮部に於いて表を進む。貢使曁び從官は各 本
四譯館 禮部 み
國の朝服を服し、館より部に赴き、階を升り皆な
ひざまず
跪 けり。正使は表を奉じて會同四譯館卿に授け、
取りつ
[會同四譯館卿が]轉 ひで禮部堂官に授く。正使以下、三跪九叩頭の禮を行なひ、儀制司官が表を奉じて退
作成提出 おくりわた も
く。次の日に奏を具 して内閣に送交 す。如し、金葉表に係らば、内閣によりて収受して後、即ち
も 禮部
に上届の進む所の者を將って交出し、部に由り内
おくりわた も
務府に送交 す。如し貢使の呈明して、國王の命を

奉けて表文・方物をばそれ親しく獻ぜんことを願
ふ者あらば、旨を得て、其の親しく獻ずることを
ゆる とりつ とも准さるれば、[禮部は]轉 ひで貢使に知らすと並に該の國王に知照するなり。(「欽定大清會典」巻三十九・主客清吏司〇四〇八頁)
○中国人の華夷思想の表現である外国使臣への三
跪九叩頭の礼の強要は近世において中国とヨーロッパの外交関係をいろいろな点で困難なものとした。一六五五年、一六六四年に二度に亘って来朝したオランダ使節はアジア諸国の使節が中国において行なうのと同一の方法で三跪九叩頭の礼を行ない、それによって多くの貿易上の特権を得ることを期待したけれども、ほとんど無駄におわった。これに比べると一七九三年に来朝したイギリス使節マカートニーはずっと好遇され、自国の儀礼に従って拝謁することを認められたが、乾隆は結局使節の要求になにひとつ耳を貸そうとはしなかった。一八一六年に来朝したイギリス使節アムハーストはマカートニーの先例にあくまでも従おうとしたけれども、強硬な態度を取る嘉慶はこれを許さず、結局追放されてしまった。西洋使臣は自国元首の身代わりという観念をもつのでこのようなトラブルを始終中国で惹起したけれども、宣教師にはそういう観念がまったくないので、北京にきた宣教師たちは拝謁の際にみなこれを行なっている。
(イエズス会士中国書簡集4・社会編」一〇二の注二、『東洋文庫・平凡社』)