咨文
○官署の平行文の一つ。各省総督・巡撫・都統・将軍と中央各部院衙門の來往行文は咨文を用いるなり。各省の督撫・将軍・提・鎭等の相互の行文
関係 あ
もまた咨文を用ふ。琉球國王と関有る督撫及び部院堂官との行文もまた咨文を用いるなり。
 咨文の用途には、咨行・咨会・咨請・咨複・咨
送・咨商・咨明・咨解等あり。
 咨文の格式は白紙の折畳形式で、封面の上方に

一つの”咨”字を写す。折中、毎扣四行五行で等しからず。毎行二十字なるも等しからず。咨文の首は”某某為咨会事”或いは”某某為何事”を以
つづ 叙述
て開始し、接ひて咨会の事由を叙し、末尾は”右咨某某”を以て結束し、文の後に具文の年月を写
明し、並びに官印を加蓋するなり。
(第二届中國・琉球歴史関係研討会論文・「清代中琉関係文書研究」秦國經)
○空道のこと
 支那に遣はさるゝ琉球の使節には空道といふて、白紙に国王の印鑑を捺されたものを何か非常時の臨機の処置の用意として渡されたもので、御用が済むとその儘持ち帰り返上したのである。清朝の革命のとき使臣は明朝への上奏文を書き換へて直ちに捧呈した爲に感賞に預ったことなどの例もある位で、当時琉球の支那に対する外交政策は欺瞞を以て終始してゐた。例寄八集巻十によると「申
[文]
年唐 江持渡候空道咨皮一通無之云云」といふ案文があって、当時の使臣が空道を支那より持ち帰り報
[文]
告すべき筈のところを咨皮一通失却したために平
等所(裁判所)で糾問せられ責任者は科料に処せられたことが見えている。又同書に支那皇帝よりの書簡を持参したる者が鼠害に逢ふて文面を汚損したゝめに「寺入」の処分にされたことなどがある。(「真境名安興全集、第三巻」六十六頁「笑古漫筆」)
○接封正議大夫鄭秉衡真栄里親方が、正議大夫に任命されてから渡唐の準備状況・福州での活動、そして歸國復命までの経過を記した「勅使御迎大夫真栄里日記」(同治四年二月十三日〜同治五年六月二十三日)の十月廿八日の条によると、正議大夫鄭秉衡が琉球館に阿口通事・同筆者・長班役の中国人を招き寄せて、彼らにお願いして布政司
宛ての咨文を作成させ、そして、その咨文を阿口通事を通して布政司に提出させた、とある。
  十月廿八日[同治四年一八六五年]
一、今日、例の通り阿口通事弐人・同筆者弐人・長班役壱人相い招き咨文兩通相い調へさせ、布政司への咨文、阿口通事にて差し上げさせ候事
 附、調へ方の砌、琉菓子馳走致し候事。
(「歴代寶案研究」第3・4合併号「勅使御迎大夫真栄里日記」の「読み下し」)
◎今まで琉球人の手によって咨文は作成したものとばかり思っていたが、その咨文を中国人に作成させた、とあるのである。もうその頃(同治四年)には琉球人の咨文作成能力は低下していたのであろうか。「例の通り」とあることから、その時だけ中国人が作成したのではなく、従前からそうであったことになるが、何時ごろからそれが「定例化」したのであろうか。琉球人の咨文作成能力に関わる重要な問題を内包する資料であり、検討すべき課題である。それにしてもショッキングな記録である。
@咨文:官中平行の文牘。即ち同格の官庁間で往    来する文書。(中國社会經濟史語彙・正編)