柔遠驛
○福建に於ける私貿易は官設の牙行を介して行はれた。福建市舶提擧司志に牙行は原二十四名設けられてゐたが、嘉靖三十年[一五五一年]代には十九名を裁革して五名存したといふ。牙行による取引きは大體ン買[掛けで買う。掛買する「大漢和辭典」]であって、購入すべき商貨の數量・値段を取決めの上で、購入を委託する。代償物を先に交付する場合が尠くないから、彼我の間に釁端゙醸[釁端:あらそいのいとぐち。゙醸:色々手をまわして人を罪におとし入れる。轉じて無實の罪を捏造するをいう。ー「大漢和辭典」]の機会が多い。永楽二十一年[一四二三年]の使船が歸還に際してf
縣高恵里の民二人、長楽縣方民里の民一人に寳鈔四五〇〇貫を騙掠されたといふが、此三人は多分牙行である。牙行の制は清代も同じく、現在其裔楊某は同地に棲んでいる。(「中世南島通交貿易史の研究」三二一頁)
○水部門外の河口、進貢廠の南に在り。明初建つ。外國の使臣の館寓の所と爲す。
 (「欽定古今圖書集成M職方典七福州府部」九三二五)
○琉球館即ち柔遠驛
一、琉館は大保境といふ所に在り。清朝より營築
せり。薩摩の琉館よりは狭小にして其製頗る精緻なり。瓦を以て葺き、上に樓あり、板をもて床とす。其下土間なり。ただ廳堂のみ瓦をしけり。
一、清人の琉館を守る者を把門官といふ。文武両人あり。武官は刀を佩ぶ。各屬五六人あり。館の大門と二の門の間に其官舎あり。晝は門を出でて遊觀するを許す。夜は事幹ありても出ることを許さず。
一、進貢使は春三月頃福州に著、琉館にとどまること七八箇月ばかりにして秋冬のあはい、九月末十月初頃正使副使以下の官員十人許北京に赴く。
其餘は皆琉館に殘りて明年貢使の歸るを待つ。
(「沖縄一千年史」所載「琉客談記」[一七九七年跋文])
○久米人入唐
 久米人、職は唐土土通使に在り。故に其の言語を學ばずんば即ち貢使に充つる能はず。其の文字を学ばずんば則ち往復の書翰を作る能はず。是を以って唐營三十六姓の子弟は、皆な幼にして唐に入り、讀書習語す。琉球が唐に進貢するは、例として必ず二年に一貢なり。唐營の子弟は進貢舩に從ふ者は四人にして翌年の接貢舩に從ふ者は又た八人、共に福州琉球館に入り、習業すること七・八年。學既に成れば復た接貢舩を待ちて其の國に返るなり。(『琉球録話』「久米入唐」文化三年丙寅一八〇六年)
○琉球遊学
けいか あ とうえい ま
○琉球館、福州の瓊河に在り。唐營の子弟も亦た
 こ も
此の館に入り、而して近邑の儒生を請ひて以って
わざ
之を師とし、毎日、師の家に至りて書を讀み業を
けだ
受くるなり。蓋し、唐營の子弟の福州に遊学する

は、例として翰林に入学する四人[国子監官生]と、相い
おおきいへだたり つ
徑度 す。唐營は其の世業に即くに特命を受く
あら
るに非ざるの故に、國王の給、束脩の用、燈燭の
な みずか いだ
費無く、皆な自ら之を出すなり。鄭[鄭嘉訓]、梁[梁光地]
琉球館
の二人、十三四年前、同に福館に入り、福儒の陳邦光に師事せり。(「琉球録話」の「琉館遊学」)
○中山王尚質より世祖あて琉球館地籍内での琉人・清兵の雜居をやめ、また館の修築についての上奏文
つつ 状 況 申し述 裁決
 敬しんで雜處の情形を陳 べ、聖朝もて斷するを
た あき
垂れて遠人を安んじ以って浩蕩たるを彰らかにせ
無謀にもお願
んことを冒懇 ひする事の爲にす。
いた
 臣が琉球國は萬里より誠を効し三年に兩貢すれ
もと こう
ば使臣相い繼ぎて員伴雜踏す。原より天恩を荷む
お 立
りて、福省の水關外に於いて柔遠館驛壱所を設て、中に頭門・儀門・大堂・月臺・左右兩傍舎三十二

修  繕 完全で堅固
間あり。皆な修整せられて完固 なり。貢臣をして
宿り住む ぬ だめにする おそれ
棲止の地あらしめ、方物をして濕らして壊 の虞
つ 荒れ果てた空地 お
無なからしむ。又た、驛に附くの曠   地に於いて
塀  築
は周囲に墻を砌きて日夜巡羅すれば民□・貢使を
疑いあって仲たがい
して相い混雑する無からしめ、嫌隙 すること生ぜしむるなり。和好は永く固くし規制甚だ弘き
その身になって情けをかける つ
は、體恤 の至って悉くせばなり。
  査するに、戊子の兵火[戊子は一六四八年、南朝政権の一つの魯王が浙江の紹興を追われて、福建に入り、一六四八年〜九年の間、建寧等二十七県を回復している。この間の戦乱を指したものであろう。ー「那覇市史・歴代寶案第一集抄」五二五頁)より本驛
傾きくずれ 荒れ果てた土地
の大堂・頭門・儀門は頽 、曠土 と爲り、兩
わず 居
傍の房舎は僅かに一十六間を存するのみなり。居
 住 せ  ま
止するところは淺窄く、屋宇は荒涼として風雨の
夕べに至る毎に、員伴は滴が漏れるに堪へず、方

物は彷徨して湿れるを恐るるなり。但だ、小事に
さき
係れば、此れより前には敢えて言はざるなり。近ごろ聞くに、關外一帶に靖藩の住兵あり。本驛の
さきごろ
儀門の内外は嚮 は、臣員の出入に供する者なるも、今は皆な兵丁の房屋なり。藩臣の封疆にては
攻撃 分 散 団体であつ
撃する所の兵は、散處し難ければ、室を築き團聚
まる
せしむるが、自ら然らざるを得ざること有るなり。但だ、兵と民と雑處するは従来より多く相い安んぜざるなり。況んや入貢の員伴は萬里の最も疏遠の人なるを以って言語通ぜず、嗜好同じからざるをや。
 今、藩の前の兵丁と門を同じゅうして共に住み、萬一にも居處すること久しくして相い和協せざれば、此の時の臣員は、不謹の罪を負ひ、天朝は即
居  住
ち寛大の恩を示し難かるべし。居止することは小
まこと 重要な道理
事に係ると雖も和好は寔 に大體 に關わるものな
さき ここ
り。此れより前に敢えて言はざるも、今、此に敢

えて言はずんばあらざるなり。且つ臣は天朝を恭
すこ つつし
敬して微しも慎まざるは無し。凡そ入貢の陪臣は
へりくだりつつしむ たの   注 意 あき其の謙謹 を囑みて、小心して以って忠順を照らかにせざるはなし。今、臣が身は萬里に在りて、
管 理照管すること及ばざるまま、兵と彜とが雜處すら
うと おろ 禮儀作法 そら
ば、誠に臣が員は疎く愚かにして禮體を諳んぜざ
すこ 誤りと罪 ま そむ
れば稍しく謬戻を滋して臣の恭敬の心に負かんこ
朝と夜
とを恐るるなり。此れが爲めに蚤夜安んぜざれば、
うやうや
肅恭しく具奏す。
  ふ こ   かんが
伏して乞ふらくは、臣が愚誠に鑑み俯して乾斷
た はか
[自ら政事を裁決する]を垂れ或いは量りて善地に移して別に
古い土臺 すっかり手放 規  格
起蓋を行なひ或いは舊基を清  出して、復た規制
あら 宿り住む
を新たにし、臣が入貢の員伴をして安んじて棲止
まぬ 大きな
するを得て以って罪戻を免からしめて、覆ソの鴻
恩恵 おそれおの
恩と天地とが等しからしめられんことを。臣戦慄
のひて、命を待つの至りに勝へざるなり。此が爲めに、具本して正議大夫鄭思善等を専差して、齎らし赴かしめて謹しみて上奏して聞す。伏して勅旨を候つものなり。
 爲字より起こして旨字に至りて止む。五百二字、紙一張なり。 つつし
 康熈五年二月初九日、琉球國中山王臣尚質、謹んで上奏す。
(「那覇市史・歴代寶案第一集」五二三〜五二五を参考にして訓讀を適宜修正)
○康熈七年二月庚午朔(一六六八・三・一三)
(乙亥)福建督撫に命じて柔遠館驛を重建せしめ
て以って琉球國使を駐せしむ。
(「日本史料集成・清実録之部(1)頁二十四)
○中山王尚貞より世祖あて福州琉球館における貿易の許可を懇願した奏文
つつし の
 琉球國中山王尚貞奏す。謹みて愚衷を陳べて天
御覧 願
恩もて鑑になることを懇ひたてまつりて、舊章に
したが 命 令 施し与
循 はしむべく皇語もて申飭して衣を推 へるの仁
あまね あき ます いつ 恩恵
を布 く照らかにし益ます遠人を柔くしむるの澤を
あきら た
彰 かにせられんことを乞ふことの爲めにす。
うやうや おも  天
 恭 しく惟ふに、地上の草木は皆な九重の雨露
めぐみ うるお  み
の澤に沾 ひ、天下の遠近は咸な聖皇の浩蕩たるの恩を望む。切に、臣は異域に僻居、幸いに聖朝の

大きな恵 さらに い つ がた 推戴
鴻茲を蒙り、再、名ひシくし難くも推して恭順の
さきごろ
兩字あれば、以って天心に答ふるのみ。前者順治
した 申し上げる
十年の間に臣が父先王貿易の一疏を具ためて入告
禮部 か
したれば、世祖章皇帝の部に勅するを蒙る。彼の時に部覆によりて、違禁の貨物を除きて湖糸[浙江省湖州に産出する生糸]等の項の如きは、貿易するを准許せらるなり。是を以って、弊國の臣民が今に至るまで
ふた まっと
衣・食兩つながら全 ふし飢寒断へる無きは、皆な

世祖章皇帝の華彜を視て一家と為し、臣民を視て一體の如くし、飢えるが如く傷つくが如くするの
おもい
念より出づるものなり。
ここ 禮部 しる
 茲に、康熈六年の部文の内に開すところによれば、「凡そ外國が進貢して貨物を随帶する者は、
な も
仍ほ前旨に照らして、如し彼が自ら夫力を出し京城に帶來して貿易せんことを願はば、來たりて貿
ゆる
易するを聽し、彼の處にありて貿易せんと欲すれ
申しつ
ば、該の地方の督撫・提督に著 けて的當の文武官
選 択 以上の趣 むねに
員を揀選して貿易せしむべし」との等語あり。欽
したが
遵 ひて案にあり。
禮部 よ
  近ごろ、康熈九年の部文に因るに、内に云ふによれば、「凡そ外國が朝貢すれば、ただ會同館に

ありて貿易するを許し、並へて沿途の貿易の例な
以上の趣
し」との等語あり。
禮部
 而して、前貢使の呉文顕等は、康熈七年未だ部
 う文を奉けとる先において、福建柔遠驛にありて、
すべていっしょ
糸綢・紗等の物を買ふも、一概 に、價に変えて
(購入した品物を払い戻されて現金を渡されたの意ー『那覇市史・歴代寶案第一集抄』五六八頁)、
年 月 むな
貢船の兩艘は載月をば空しくして歸る。弊國の人
な 思いもよらない運命
民は殆ど寒さに号くに及ぶ。此れ臣の奇数 なり。
こと  やせ地
 特に請ふ者あり。弊國は地上磽スにして糸の出
産物なければ。寸糸尺縷も、先には天朝に給せら
願 もと
れんことを仰ひて、以って國用に需めて以って困
すく  うけ
乏を済ふ。現に聖旨を奉たまはるに、「凡そ外國が朝貢すれば、ただ會同館にありて貿易するを許

し、並へて沿途の貿易なし」とあり。煌煌たる天
むねにしたが
語あへて欽遵 はざらんや。但だ、弊國は朝貢する時、土産を順帶するありと雖も、粗貨に過ぎざ
きたなし
るなり。之を言へば□すべく、之を視れば穢 と
おくりこ いへど
すべし。□金銀兩を發來さすありと雖 も、至って少なし。買ふ所の湖糸は三十餘但[但:一人が天秤棒でかつぎ得
くら 天  地 へだたり
る量]に過ぎず。之を別彜に較ぶれば、霄壌の懸隔あ
おさ もと   よ
り。且つ弊國が貢を納むるの道は素よりf省由りす。道路を以って之を言へば、數千餘里なり。若
おお
し土産の粗物をして京都に轉運せしむれば、広い
つい
に夫力を費やし至難なることこれより大なるはな
も そ  お
し。若し其の湖糸等の物をば只だ會同館に在ひて貿易するを許すのみならば、臣が貧國の如きは、
あた
力及ぶ能はざること甚だしく、朝鮮美邦の比には
あら
非ざるなり。
いうまでもなく もと
 況 、弊國の土産等の物は、原、f省柔遠驛
お よ
に在ひて湖糸・磁器等の項に兌換せしこと例に憑
るべきあり、案の考ふべきあり。 伏して思ふに、
もと柔遠驛は天朝の殊恩もて、舊の如く起蓋し、而し
あ こうむ
て貢使をして安挿するの地有らしむるを蒙 れり。
しか あら
然れば則ち沿途の比には非ざること明らかなり矣。
こと
  更に請ふ所の者あり。臣が海邦の如きは聖天子
 な まぬ
の優恤するに非ざれば、擧國、寒に号くこと免か
や え 腹蔵なく申しの
れ難ければ、已むを得ず、蟻情を瀝 陳 べ聖聽を
こひねが た 禮部 命令
冒コして懇祈はくは、惠を垂れて部に勅して再び
適宜相談
酌議を加へて、福省督撫兩院に轉行し、舊例に照
な お
循して湖糸等の物は仍ほ福省に在いて公平に貿易せしめられんことを。
  臣が窮國をして冠装に欠くことなからしむれば、
天  地 蘇生 いだ
皇徳の覆載に遠人の甦を喜びセを挾[挾セ:わたを懐く。思情
ますます いただ
を感じて寒さを忘れるのたとえ]の感は、益 深くして君を戴くこ

萬 年 のぞかる
と天の如くして萬祀誅 ることなかるべし。
  康熈九年十月十三日琉球國中山王尚貞、謹しみて上奏す。(「那覇市史・歴代寳案第一集抄」五六六〜五六八を参考にして訓讀適宜修正)
○禮部より中山王世子尚貞あて、福州琉球館における貿易許可の件についての咨文
した
 禮部、會典に循がひ糸を買はんことを請ひたる
しさい お ゆる由、康熈七年の彼の處に在いて貿易するを聽せし
おもい こ 子細 説明して明きらかに
を體やられんことを乞ひたるの旨を剖明 して、
ねんごろ 禮部 命令 詳細に調査
懇 に□□し、該の部に勅して定例を詳察 せしめ
            かさ 命令 天子のいつくしみ
られたれば、申ねて督撫に諭して以って天仁
ひろ
を拡めしめたる事の爲にす。
禮 部 @
  禮科より抄出されたる該の本部の題覆によれば
以上
『琉球國中山王世子尚貞の奏の「前事[云云]との等
の趣
因について、康熈玖年拾月拾参日に奏したれば、
うけ玉
拾年捌月弐拾弐日に旨を奉 はるに「該部より議奏
むねにしたが
せしめよ、欽此」とありたること欽遵 ひて捌月
お 禮部
弐拾參日に於いて[禮科より抄出されて]部にいたりたり。
禮 部 A
[そこで]該の臣部が議し得たるに

琉球國中山王世子尚貞の疏に稱ふには
ひそか おも 辺鄙な土地
「切 に念ふに、臣が國は荒 僻にして、凡そ服飾
もと
の器用は多く天朝に仰むるなり。而して官伴・水
それぞれ しおから
稍は、各 土産を帶び、米麦・魚醤の如きの類を
特別
ば、綿布・磁器・雜物に兌換す。近ごろ朝廷の殊
の恩恵
恩 を蒙り、舊に照らして柔遠驛を起蓋し、彜衆を安挿せしめられ、一切の貿易は皆な驛中に在り。

例として憑るべきあり。案として考ふべきあり。
もと も
原より沿途の比には非ざるなり。今、若し悉く會

同館に運至して貿易せしむれば、夫れfより六千里にして京に至り又た京より六千里にしてfに返
そ はか
るなり。其の間の水陸の夫力の一金の物は、計る
ついえ いわん
に數金の費 あり。況 や、随帶せる土産は粗にして重き物に係れば、搬運の萬難なるをや。これ天
うれへるさま
朝の必ず憫念する所の者なり。今臣尚貞、煢煢
やまい あ なほ 先祖の事業を継承 すべ
として疚 に在り。尚未だ嗣服 せざれば、凡て事は一に國法に遵はんとするものなり。」との
以上の趣等語あり。
B査し得たるに[
禮 部 C
康熈三年四月内に[禮科より抄出されたる]臣部の題覆に
うやうや
《廣東巡撫の盧興粗の”恭 しく暹羅の進貢のこ
報告   い
とを報することの爲めにす”との一疏の内に開へ
ある
る「進貢に順帶する貨物は、或いは貢使をして自ら船夫を雇ひて載運せしめ、或いは驛遞・船夫を
以上の趣
して運送せしむべし」との等因について、具題し
受け玉
たれば、旨を奉 はるに「暹羅國の貢使の貨物は、もし彼が自ら夫力をだして京城に帶來して貿易せ
ねが  き ゆる
んことを願はば、來たらしめて貿易するを聽し、

もし彼の處に在いて貿易せんことを欲すらば、擾
申しつ
亂を致すなからしめ、該地方、該の地方に着けて委員 物事を処理する才能がある
委として能幹 の官員を選び、貿易を監看せしめよ」とあり。
 C 旨にしたが
》とのことありて、欽遵 ひたること案に在り、
B
]と、あり。

今、琉球國中山王世子尚貞の奏に「請ふらくは、
たの
凡そ服食の器用は多く天朝に仰むものなれば、而
それぞれ
して官伴・水稍の各 帶せる土産にして米・麦・魚醤の如き類をば、綿布・雜物に兌換せられんこ
まかりこ まさ
とを」とありて、前來せり。應さに暹羅國の例に照らして、進貢に順帶せる貨物は、福建省の柔遠
ゆる
驛に在りて貿易するを准すべし。違禁の物を買は
のぞ ほか な
しめざる除くの外、仍ほ該の地方の督撫をして貿
自分
易を監看せしむれば可なり。臣等、未だ敢えて擅
勝手に処理 つつし便 せず。謹 みて題して旨を請ふものなり。
A
との[結論にいたりたれば]
以上の趣等因をば、康熈十年八月二十八日に題したれば、
受け玉
本月三十日に旨を奉 はりたるに「議に依れ、欽此」
むねにしたが
とあり。欽遵 ひて抄出す。
@
と、ありて部に到れり。

 其の琉球國の進貢に順帶せるの貨物は福建省の
お柔遠驛に在いて交易せしむるも、該の地方をして委員
委として能幹なる官員を選びて監看せしめ、違禁の史書・黒黄紫皀の大花・西番連の緞疋・焔硝・
のぞ ほか牛角・兵器等の項の物を買はしめざるを除くの外、
そ 申しつ
其の餘の糸絹・布疋・雜物は着 けて交易せしめて
あ まさ なら
帶去せしむべし。相い應に福建督撫并びに琉球國
あ まさ
世子へ移咨すること可なるべければ、相い應さに
よろ すすめゆ移咨すべし。此が爲めに、合ろしく咨して前去か
ねがは 承 知 とりはから すべ
しむれば、煩爲くは査照して施行 はれたし。須からく咨する者に至るべし。
  右は琉球國中山王世子に咨す。
康熈十年九月十日咨 (「那覇市史・歴代寳案第一集抄」五七七〜五七九を参考にして訓讀を適宜修正)
○[尚敬王即位七年、一七一九年の条]向秉乾、柔遠驛を修葺するの
おく
費銀、毎年三十両を寄るの例に改定す。
 徃昔の世より琉球柔遠驛を修葺するの費銀は進貢して中華に入るの時、庫官、五主、水稍等を率領して、先ず驛館に到り、修葺完竣して上下の員役、館驛に安挿す。其の費銀三百兩なり。接貢の時に當たりても亦然り。其の費用銀一百五十兩なり。然れども費銀甚だ多し。向秉乾(當間親雲上朝斉)耳目官と為りてfに在るの時、乃ち門使呉天統を召して曰く、今番、庫官をして大いに修葺を加へしむ。此れよりして後、毎年、汝に三十兩を寄授せば、球船未だfに入らざるの暇間、預め
修葺を加ふること如何と。天統其の命に從ふ。爾よりして後、本國多く利有り。是れに由り、永く著して例と為す。(「球陽」七三九)
●「呈稟文集」第十四号文書
 具呈す。琉球國耳目官毛天相・正議大夫鄭弘良
ごろつき やぶ も
等、土棍が騒擾するあれば、害を劈り以って國典
あき も いつ
を彰らかにし以って遠人を柔くしまれんことを天
うっ
にケたへることの爲にす。
せつに思う よしみを通ずる  くだん
  切 に、相等は天朝に納款 して、所有の官
これまでの例
伴水稍が随帶の銀兩をば、歴例 にては、絲布・
さ 事柄
雜物に兌換す。向きの縁故は明の末年のことなり
ごろつき むさぼ 手ずる・術策
しが、奸棍が利を嗜 らんがため鑽 もて牙行を
設立 いろいろ おどし
立したれば、各色の横、種々の擾害に遇ふこと枚挙すべからず。
 順治十年[一六五三年]間に至りて、弊國主、世祖章皇
業 さま つぶ
帝に具奏して、牙行の端を害たげることを備さに
申し述 申しお ことごと
陳 べたれば、勅をば福建に行 くりて尽 く前弊
あらため除ぞか
を革  しめ、會同館の事例に照らして館夫を設
あき よりどころ
立するを蒙れり。案冊の炳らかなる拠 あるも、
おも 弊害
意はざりき、事の久しければ、弊の生ずるを。
だしぬけに
  康熈二十三年[一六八四]八月の内、突 として、三
はか あ すで さき
人ありて、謀りて館夫に充てられたり。經に前の
つい   す な存留通事蔡應祥は知覚して、遂に天を投て主と作
さき 文書をしたためて申し立
す等の事を以って前の撫院大老爺金に具控
て 調べて逮捕 実地に調査
したるところ、査緝 して訪 せしを蒙れること
ちかごろ いず ごろつき案に在り。近 、何れの方の土棍なるを知らざる
[他人の牙行の名義] か [牙行の権利保持者] あ
も影 をば藉りて頂 に充てられた
 ごまか な
りと朦混して、大老爺台下に具呈して館夫と作ら
としごと
んこと求むるものあり。切に思ふに、相等、歳 に方物を貢し、貿易するに限りあり。前案には館
夫のことを額に載げありて遵行すること已に久し
面識のなき
きも、今、若し生面 の人を以って、突として驛[柔
いいがかりをつける
遠驛・琉球館]に充入せしむれば、勢い必ず藉端 し
おこ およ かるがる
て事を生し、害に貽ぶこと軽 しくは已まざるに
事情 述べ
あらざれば、情を瀝るものなり。
お願い申します
 大老爺[布政司]に仰叩 するに、相等の海外の使
配 慮
臣が國の爲めに奉公するを垂念せられ、前案を査
参照:冒充
察して、嚴しく禁止を行なひ、額外の冒充[他人の名義を
なら
かたりて牙行の権利を行使すること]を許さざらんことを。併びに、
こいねが
懇 はくは、兩院大老爺に通詳せられんことを。
報告 ごろつき もぐりこむ ふさ
鉄案を立つるを申し、永く奸棍の營に纉 を杜
がば、舊例を不易ならしめ遠人をば安んずるを得るに庶からん。切に呈す。
したた
 康熈三十七年[一六九八]三月 日。呈を具 めたる琉球の耳目官毛天相・正議大夫鄭弘良、三月三日に
たて布政司に上まつる。
(「『呈稟文集』について、糸數兼治」記載の原文をもとに訓讀)
●館墻被水して冲倒せしかば修理を求むるの呈
 具呈す。琉球國存留通事蔡用弼、館驛を修理し
いつ こひねが
て以って遠人を柔くしまれんことを懇 ふ事の爲めにす。
せつにおもう よしみを通じ
 切 に、弊國は天朝に納款 し、皇恩の浩蕩
 こうむ
たるを荷蒙りて、館驛を設立して以って方物の頓
貯・貢使の安歇と為す。本月△五日間、洪水の漂

浸して墻垣の倒壊するにタ遭ひしとき、大老爺の
しら
駕臨して親ら量有丈數を驗べたること案にあり。
た せま
但だ館驛は營地に逼り近く墻垣が倒壊し内外一の
おちど
如し。弼、寝ても安席せざるなり。誠に踈虞あり
 え の まして
て罪を穫てチがれ難きを恐るるなり。況 や、今冬、
あ も
又た進貢の年に値たれるをや。Zし貢船一たび至

れば方物を頓貯する處なければ、已むをえず、大
おねがい老爺に冒叩するに、異域の使臣を憐れみ、詳憲を
すみやか
恩賜せられ、速即に匠を召して修理せしむれば、感激不朽なり矣。切に呈す。
康熈五十九年九月△日、具呈す。存留通事蔡用弼
(「呈稟文集」第一〇号文書」)
委任
●百總に委して館を看せしめられんことを請ふる呈
いつく
 具稟す。琉球國存留通事△等、遠人を柔 しみて
こいねが
以って館驛を全きならしめられんことを懇 ふ事の爲めにす。
さき 千  總
 切に、△等、向に副老爺の天恩を蒙り陳百總をして[琉球館驛を]巡査せしめたれば一應に間雜人等が敢
すすみい
へて驛に進 り騒擾せざるなり。今、陳百總身故
すすみい
したれば、誠に營厮は[間雜人等が]館に進 り騒擾して樓板を折りて什物を盗むことを知る無く以って阻
こいねが
止し難きを恐るるなり。□爺に叩乞ふに、始終恩

を同じゅうして百總を寤マして巡視せしめ以って
も いつく
館驛を全うし、以って遠人を柔 しむれば、恩は二天に同じなり。切に稟す。
康熈△年△月  日  稟す。(「呈稟文集」第十二号文書)
○[蔡功熈]
 乾隆十四年己巳[一七四九年]二月初五日、年三十九歳のとき、遣いを奉じて接貢存留通事と爲り、次年[乾隆十五年一七五〇]正月初五日、都通事阮大鼎宜保親雲上、

とも お
才府向克類瀬底親雲上と同に、那覇に在ひて開船
はか
す。開船の時、福建f縣の難商・呉永盛等共に計

るに二十八名を點塔す。馬歯山に到りて風を候ち、

十六日、開駕す。十七日、久米山に到りて風を候
ちて二十四日放洋す。二月初七日怡山院に到り、十四日、海防官と協鎭總爺とが船に詣り會驗す。
次日、内港に吊進す。十六日、難商の呉永盛等二十八名を率領して海防衙門に赴きて點名して縣官に交付す。十九日、館驛に安挿す。公務を辧理す
ことごと あやま お
るに盡 く皆なx らざるなり。七・八月間に于ひて、數次颱おこり、大水冲溺して、館驛の墻壁四
こ よ
□をば□壊するに至れり。是れに由り、修理を呈

請す。是の時、館驛の井の中に童の屍あれば、海

防官の□□を生ずるを恐るるに因りて、銀兩を給
ゆる すみや 命令
するを准されたきを請ひて、急 かに令して自ら修
もと 堅固
葺を行なひ、其れ舊の如く皆な固ならしめたり。

 凡そ公事全く竣はり、九月の間、登舟す。十一

月の初五日、五虎門を出づるも順風なきに因り、沿海を漸く行駛し、浙江台州府石塘に到りて風を
 ま
候つ。次年の正月初五日放洋し、十一日歸國す。
こうむ
(此番の進貢船二隻は風を被 りて八重山に漂入し、
かしこ お あた
小船は彼 に在いて礁に衝りて船を破らる。此れに

因りて大船は三月の間、fに至り、小船は八月の
いた
間、fに來るなり。故に歸國すること先後して異なることあり。)(「那覇市史・家譜資料二(上)三一四頁)
○本年[大清嘉慶九年甲子、尚ー王即位元年一八〇四]琉球館驛火を失して延焼す。
 元年甲子正月初九日夜、柔遠驛樓既に廰堂より失火し、防ぐも而も能くせず。遂に樓屋及び有る所の天后神・土地神併びに先人の神主を焼く。此の時、接貢船水稍蒲戸仲村渠も亦焼死を致す。随ひで舊に仍りて起蓋するを請ふ。業に海防官の批を蒙る。館を焼くは外より延焼するに非ず。使臣等慎まざるの所に因れば、則其の願ひを准し難
しと雖も、然れども琉球は天朝憐恤の國に係る。是を以て請ふ所を准すと。本年十月、舊に仍りて成を告ぐ。(「球陽」一五一一)
○本年[尚ー王即位二十八年・一八三一]十月、柔遠驛に在りて四
アを加へ建て、併びに土地君廟を設く。
 柔遠驛は原、是れ狭小なり。驛に存するイ銀を動發し四アを大堂の左に加設す。且土地君は從前天后宮に奉安す。爰に宮の左に廟を設けて奉移す。
            (「球陽」一七〇四)
○琉球館の把門官(門番)詰所及河口通事公事所の普請についての要請書(参照:存留通事)
つめしょ あ
○琉館屋把門官詰所、相い破られ候に付き、同所
まで ふ し ん
并びに阿口通事公事所迄も普 請仰せ付けられ候段、

存留普久嶺里之子親雲上より別紙の通り申し来し候間、此の段申し上げ候、以上。
 辰五月(甲辰:道光二十四年、一八四四)
    足長史
    奥間里之子親雲上
    長嶺通事親雲上
    百名親方
○上覧に備ふ。
琉館屋把門官詰所相い破られ候に付き、去去年よ
あ ご ざなくそうろふ
り普請願い仕り候へどもお取り揚げ御座無候、去年に到りては、接貢船渡唐の上、把門官詰所崩落し、相公ども住居の所これ無き候に付き、此の節
かな
普請仰せ付けられず候ては叶はざる事にて把門官
まで
詰所并びに同所右表へ阿口通事公事所迄も普請仰せ付けられ候様、把門官より布政司・海防官へ普
よし
請願い申し出でられし由にて、琉球方へも願い奉
も たの
り候様、把門官より阿口通事を以ってお頼みこれあり候に付き、勢頭・大夫御案内の上、願い奉り
いよいよ そ
候処、弥 、願い通り相い済まし候段承り候。夫より把門官詰所普請取り付け、右表へ阿口通事公

事作り調へ候。入り目両銀の儀は、布政司より成
くだ よしうけたまわ もっと
し下さるる由承 り申し候。尤 も阿口通事所壱軒長さ五間・横弐間作り置き候次第、表御方へも
よろ よう  と はか おお くだ
宜しき様お取り計らい仰せあげられ下さるべく候。
さよう おこころえ と あ いた
左様 御心得られ、此の段お問合い致し候。以上。
 辰四月廿六日(甲辰:道光二十四年、一八四四)
普久嶺里之子親雲上[進貢存留通事金邦俊]
怱役
 長史
◎琉球館の菩薩の前に位牌殿を建てる件についての依頼書。(参照:存留通事)
かんじんぎん も みぎおもて
 館屋菩薩御前へ、勧進銀を以って宮の右表 へ位
いた牌殿建立致し、余銀これあり候はば、拾アも修補
なによう ご ざ か
仰せ付けられ候ては何様御座あるべき哉。去去年
とあい こ そうろふところ
存留よりお問合申し上げ越し候処 、当時、唐表、
つ みぎよう など
阿蘭陀人兵乱に付きては、右様普請修補の事等、
ごつごう む あ おう いた ま じ さきのじせつみあ あ
御都合向き相い応じ致し間敷く、先時節見合いに
よ さしず えそうろふうえ
寄り、お指図を得候 上、位牌殿建立、拾ア修補これあり候様仰せつけられ候段仰せ渡し置かれ候。
まで
然る処、勧進御物、当年迄番銭七百弐枚余に相い
及び、其の上、阿蘭陀人兵乱も相い治まり申し候
せつ
間、御模の通り、此の節琉位牌殿建立仰せ付けら
なによう ご ざ か かつ また
れ候ては何様御座あるべき哉。且つ又た左右拾ア
ひさし そうたい あ よわ
の儀も年来久敷き御普請にて怱体相い弱ミ候処、
なおさら もはや あ
去年七月大風の時、猶更吹破せられ、最早危相い
こ ま も
見え申し候間、是れ又た勧進御物を以って御修補
た ぞん たてまつ
仰せ付けられ度く存じ奉 り候。此の旨仰せ上げられ下され候。以上。
 辰四月廿六日[甲辰:道光二十四年、一八四四]
普久嶺里之子親雲上[存留通事金邦俊]
ごぞうえい
 右の通り勧進御物を以って琉位牌殿御造営仰せ

付けられ、余銀これ有り候はば、左右拾アも是れ
ま た
又た御修補仰せ付けられ度く存じ奉り候、以上。
 辰四月廿六日[甲辰:道光二十四年、一八四四]
神山親雲上[進貢正議大夫魏恭儉]
伊志嶺親雲上[進貢耳目官向紹元]
  表御方
  御取次衆
○本年[尚育王即位九年癸卯、一八四三]柔遠驛把門官の公署を改造し、並びに新に土通事公館を設建す。
 此の年、fに在るの員役、布司に禀請し、工を興して柔遠驛把門官の公署を改造し、併びに其の右邊に於いて、新たに土通事の公館一ア、其の長さ五間、広さ二間を造る。(「球陽」一八三四)
○[道光二十七年・一八四七年]
一、福州琉球館屋の儀、大切なり。勅書・御拝領
ほか
物・表文・貢物、その外、御当地[琉球]の御用物等
これ つ ふさぎ
の格護之ある事候に付き、第一に盗賊の防 、館中
よくよく
の取り締まり等を能々入念にすべき事
一、御用物又は渡唐の者ども、交易の唐産・和産、
そうらひ おさしさわり
異国人どもへ差し知らせ候 ては至って御故障成り立つべく館屋にては勿論、荷役積み入れの節も
よくよく こ
能々その格護之れあるべき事
そうら
  右兩条は入念すべき儀は申す迄もこれなき事候
えども、福州の儀、会船所は殊に当時は異国人ど
まか  あ あ は  や よしそうろふ
も入り込み罷り在り、盗賊も相い時行る由候 に
つ かれこれ いよいよ な そうらひ かな
付き、彼是、弥 其の慎み之れ無き候 ては叶はざ
そうろうふところ そう
る事候    処、万一大形あい心得、何か届け兼ね候
ろふ おんおもひやりおぼし
  儀もこれあるべきかと、毎度、御念 遣思 召さ
そうろふ おもむき そ
る事候 条、前件の趣等、其の意を得られ、当時
から な よ
柄猶ほ入念に随分無事故を以て首尾能くこれあり
そうろふよう そうろふ こ むね
候 様、精々勤務致さるべく候。此の旨、分けて申
おさしず そうろふ
し渡すべき旨、御指図にて候 以上。
 未八月五日[道光二十七年・一八四七年]
未秋走
渡唐役者中
おお わた お そうろうふあひだ
 右の通り仰せ渡し置かれ候   間、其の意を得ら
そうろふやう
れ、万事首尾よくこれあり候 様取り締まり向き
など それぞれ さしず いた むね お さしず
等、各 よりも時々指図致さるべき旨、御指図にて候、以上。
つけたり 致  書 だいごとに
 附  、本文、存留方へ致帳し留め置き、毎代 、
よろ つぎ わた と しま む もどうしそうろふ合しく伝失なく次ぎ渡し取り締まり向き最通候  様申し渡され候。
 未八月[丁未:道光二十七年一八四七]
勢頭[正使]
大夫[副使] (「琉球王国評定所文書・第三巻」三七三頁「丁未接貢船仕出日記」)
○本年[尚泰王即位二十年呈卯・一八六七]恭けなくも柔遠驛を修造するを蒙る。
いた
 去年八月十七日、海防官柔遠驛に詣り、遍處看
見して曰く近來球人染病の煩に勝へざるは、是れ風寒地湿の致す所なり。我當さに布政司に造達し、庫款を籌給して、起蓋修理せしむべしと。乃ち本年に于いて、著して工を興し成を告げ、以て居住に便せしむ。(「球陽」二二〇〇)
○本年[尚泰王即位二十六年癸酉・一八七三]柔遠驛の各處を修造する有り。
 此の年、宮上大堂の兩邊左右十ア・土墻は、去年海防官、令を奉じ籌画して、其の修葺を行ふ。且把門官の直處を改造し、其の後面に在りて、土通事の會處一アを新設す。其の長さ五間半・横四間半なり。(「球陽」二二六九)
○本年[尚泰王即位二十七年・一八七四]柔遠驛二門に石碑を設建
す。
 柔遠驛二門に、昔石碑を設建す。今、台石尚在り。然れども其の顛末は公案に記さず。前年申年、海防官、華人等驛館に來到して、事を行ふに善を以てし、弊竇を滋すこと勿きの處を將て、細さに木板に記し、親しく二門に懸けて以て告示を行ふ。此の時、貢使等相議すらく、斯の文を石碑に鐫り刻み、仍舊台に建つれば、則ち華人等之に鑑み之を畏れ、敢へて碍を致さず。且驛館に于ても亦甚だ檢束の便を得んと。乃ち布政司曁び海防官等の處の掌寨と互に商議を加へ、碑を立て文を記す。其の文左に記す。
 欽加知府銜永春直隷州正堂署福州南台海防分府随帶加五級紀録十次、翁 嚴禁を出示する事の爲に、照得するに、太保鋪に柔遠驛を設立するは、原、達人を優待し以て朝廷懐柔の至意を示す爲なり。凡そ琉球官伴、省に到りて館驛に安挿する有り。閑雜人等、擅に進みて騒擾するを准さざるは、久しく經に禁を示すこと案にあり。嗣いで該驛年久しく修を失するに因り、本分府大憲を禀奉し、籌款して修を興し、現に已に修造完く竣る。誠に附近居民閑雜人等、擅に進みて騒擾するを恐る。土通事・地保に諭飭して随時稽査せしむるを除くの外、合に嚴禁を出示するを行ふべし。此れが爲めに附近居民及び閑雜人等に示仰して知悉せしむ。
爾等、得て擅に館驛に進みて騒擾し、及び窺伺偸窃し、縱に婦女幼孩をして糞草穢物を將て館内に抛棄せしむる毋れ。並びに驛に在りて聚飲し賭博し、門ウ墻壁をエオし、小孩、毬をカり錢をキして喧嘩ク擾する等の事を嚴禁す。之れを示すの後より敢へて故らに違ふが如きは一は査察を經、或いは指禀せられて立即に差拿し、府に赴きて重きに從ひ、究弁し、罰して賠修せしむ。Zし土通事・地保査管を失すれば、一併に重究せん。各宜しく凛遵して違ふこと毋るべし。特に示す。
 同治拾壱年拾月初一日、柔遠驛に給發する木牌は満漿實貼して風雨の損壊を致す毋れ。
同治十二年十二月貢使(耳目官向徳裕・正議大夫王兼才)朝京都通事蔡大鼎(新存留楊廷鼎、舊存留周兆麟)、同しく捐して建つ。(「球陽」二二七六)
○本年[尚泰王即位二十九年丙子・一八七六]福建省に洪水の災い有り。
 此の年、福建省、大雨続き降り洪水氾濫す。有る所の柔遠驛も、水三四尺の深さに及び、内外の土垣水の破る所と爲り、其の數を計られず。
(「球陽」二三〇三)
○物品購入の役人
 於大清調物(物品購入)仕候儀、福州官人より
二 一
北京へ披露(上申)有之、被差免候段到来候へば、
v 二 一
買物被申付候、琉球方の儀被承候故、諸事訟等福
二 一 v
州迄の儀は右官人へ申出候、尤唐人三人へ買物中取被申付置候付、諸用向右の者致案内相調候、買
とほり て
物相仕舞候へば、館屋へ官人被差出、改有之通 手
   二 一 v
形被相渡出船候(同上)[大清國へ琉球人通融の大抵聞合候覚書]
二 一 (「真境名安興全集・第一巻」六九頁)