進貢船の武装
○琉球の進貢船は永楽十九年(一四二一年)以前は武装していなかった。琉球の海船が武装するようになったのは、次のようないきさつがあってのことであった。
 永楽十九年(一四二一年)五月、使者g逹口尼等の乗る海船が海賊二十余隻に襲撃され財物と人命を奪われ多大な損失を蒙ってしまった。この時、琉球の政治の実権を実質的に掌握していた尚巴志は、この事件を契機に海賊船から財物と人命を守るために「琉球の海船」に「武装」することを決断するに至った。
 右の事件をきっかけにして、琉球は「貢船」にも「武装」するようにしたが、これが、中国で問題となり「軍器」を没収される事件が起きている。
「歴代寳案」には次のように事件の概略を伝えている。
 右の事件後、尚巴志は瓜哇との交易のために使者阿普斯古・通事沈志良等を派遣したが、その際、前轍を踏まないように使者の乗る安字號海船の保護のため「武装」して行かせた。しかし、安字號海船は瓜哇に至る前に遭風打碎して福州に漂至してしまった。そこで、福州の役人によって安字號海船を臨検され、「軍器」が装載されているといことで、「軍器」と瓜哇との交易のために装載してあった貨物を没収されてしまった。
 以上のことを回國の使者から聞いた琉球側は、瓜哇との交易のために装載してあった貨物は安字號海船の修繕費として費やされるし、「軍器」は没収されるし、その上、尚巴志は死去していて世子尚忠の代にはなっていたが、未だ冊封を受けてなかったものだから、大変困惑したようである。
 琉球は中国の処置には不満を持ち困惑はしたが、貨物を修繕費にとって替えられたことには目をつぶり、そのことについては、何も要求をせず、只、「軍器」の返還のみを願っている。正統七年(一四四二年)のことであった。
 この要請は「軍器」が琉球にとっていかに重要なものであるかを強調するとともに、中国側に進貢船への「軍器」の装載の認知をも要求する意思があることを伝えたものであった。
 右の請願に対して、中国側がいかなる処置をとったかは不詳であるが、琉球側の要求を受け入れたものと思量される。というのは、この要求から約三百年後の一七三六年に書かれた「大島筆記」に
 「進貢船は矢倉を揚げ狭間を明け、砲を置、弓  鐵炮等を備ふ。是海賊の用心なり」
と、進貢船への「軍器」の装載のあることを記しているからである。
 この「大島筆記」の進貢船の「軍器」の装載については、中国側の認知済みであったと思量される。認知されたものだからこそ「軍器を装載している」趣旨のことを、土佐に漂流した潮平親雲上は、「大島筆記」の著者たる戸部良熈に語ったのであり、認知されたものでなければ、「軍器」を登載しているとの発言はなかっただろうし、また、その記録もなかったことだろう。よって、先の琉球側の「軍器」に関する請願はかなえられたとみることができるであろう。
 以上のことから、琉球の進貢船が「軍器」を装載するようになったのは、永樂十九年の海賊の海船襲撃事件以後のことであり、進貢船に装載することを中国が認知したのは、正統一七年(一四四二年)尚忠王の「軍器返還要求」以降のことであろう。(「歴代寶案」P五五五)