正大光明殿
○清朝は満州出身であったので、国初以来皇太子を立てなかったが、康熈は一六七五年末、孝誠皇后の腹に生まれた第二皇子允ホを皇太子に決めた。ところが允ホはみなからもてはやされたので驕慢となり、「暴涙淫乱不孝不仁」の行動が多かった。そこで皇帝は皇太子を廃し幽禁した。ところがこのことは他の皇子たちに皇太子になれるかも知れないという希望を与え、これにそれぞれ先物買いの群臣がくっついて猛烈な立太子運動が展開された。たとえば、八皇子允マは長子允ミの指示を受けて皇帝に盛んに働きかけた。張明徳という人相見は允マが将来大貴になる相をもっていると述べたという評判が高まった。康熈は大いに気分を害し、允マを逮捕して監禁した。その際、張明徳が皇太子がまだ廃されてない時に賊を呼んで刺殺させようとしたということが明るみに出て、張は凌遅処死の刑に処せられた。そこで、皇帝は太子の位置をいつまでもあけておくのはよくないと痛感し、一七〇九年にふたたび允ホを皇太子にした。しかし允ホの狂疾はなおらなかったので、一七一二年ふたたび廃位の諭旨を降ろし、咸成宮に監禁した。この事件で皇帝は皇太子を立てることをやめ、臨終の際「皇四子は人品貴重にして深く朕躬に似る。必ずよく大統を承けん。朕の登基を継がしむ」と諭して、結局第四皇子が即位したという。これが雍正帝である。雍正はこれにこりて儲位密建の制を作った。それは皇帝が自分のあとを嗣がせようとする皇子の名を書いて密緘し、これを正大光明殿の額のうしろに置き、皇帝崩御の場合は、これを開いてその名のあった者が即位することである。これはその後の清朝のきまりになった。(ただし嘉慶帝は別)(「康熈帝伝」別注七二『東洋文庫・平凡社』)