存留通事
○[蔡功熈]
 乾隆十四年己巳[一七四九年]二月初五日、年三十九歳のとき、遣いを奉じて接貢存留通事と爲り、次年[乾隆十五年一七五〇]正月初五日、都通事阮大鼎宜保親雲上、
とも お
才府向克類瀬底親雲上と同に、那覇に在ひて開船
はか
す。開船の時、福建f縣の難商・呉永盛等共に計

るに二十八名を點塔す。馬歯山に到りて風を候ち、

十六日、開駕す。十七日、久米山に到りて風を候
ちて二十四日放洋す。二月初七日怡山院に到り、十四日、海防官と協鎭總爺とが船に詣り會驗す。
次日、内港に吊進す。十六日、難商の呉永盛等二十八名を率領して海防衙門に赴きて點名して縣官に交付す。十九日、館驛に安挿す。公務を辧理す
ことごと あやま お
るに盡 く皆なx らざるなり。七・八月間に于ひて、數次颱おこり、大水冲溺して、館驛の墻壁四
こ よ
□をば□壊するに至れり。是れに由り、修理を呈

請す。是の時、館驛の井の中に童の屍あれば、海

防官の□□を生ずるを恐るるに因りて、銀兩を給
ゆる すみや 命令
するを准されたきを請ひて、急 かに令して自ら修
もと 堅固
葺を行なひ、其れ舊の如く皆な固ならしめたり。

 凡そ公事全く竣はり、九月の間、登舟す。十一

月の初五日、五虎門を出づるも順風なきに因り、沿海を漸く行駛し、浙江台州府石塘に到りて風を
 ま
候つ。次年の正月初五日放洋し、十一日歸國す。
こうむ
(此番の進貢船二隻は風を被 りて八重山に漂入し、
かしこ お あた
小船は彼 に在いて礁に衝りて船を破らる。此れに

因りて大船は三月の間、fに至り、小船は八月の
いた
間、fに來るなり。故に歸國すること先後して異なることあり。)(「那覇市史・家譜資料二(上)三一四頁)
○[金ニ]
○康熈六十一年壬寅、進貢使耳目官毛広ヌ具志川親雲上盛冨・正議大夫陳其湘松堂親雲上がfに赴
受け玉
くの時、八月十二日、憲令を奉 はりて讀書習禮の事の爲に、貳號船都通事紅士顯伊差川親雲上に随
ひてfに入る。
 雍正元年癸卯六月二十八日に至りて、不意に在
館存留通事林宗ネ新垣親雲上が病死せり。此れに因りて、海防官が館の主なく公事倶に虧するを看
申し上げ
て、督撫兩院に詳 して命を請ふを以って已に代官存留通事と爲り、例に依り事を行へり。
雍正二年甲辰三月十四日に至りて王舅翁國柱伊
舎堂親方盛傳・正議大夫曾暦砂邊親雲上は、已に
おこな爲 ひたる存留代官費用銀兩についての共議を以っ
おく
て、公銀貳拾兩を發りて以って給し、力を合わせ
ここ お
て焉に公事をば完はれり。
 本年五月十一日、五虎門より開船し、走して中

洋に至りて、逆風に遭ひて薩州山川地方に漂到す。

本年八月二十五日、彼の地に在ひて開船し、三十
帳簿 つく
日歸國し、以って代官存留の簿を爲り朝廷に奏し、
おさ
以ってノ用座に入めたり。公事已に全く竣はれり。代官存留と爲ると雖も行ふ所の事は、存留職と異ならざるなり矣。(「那覇市史・家譜資料二(上)」一〇五頁)
○進貢使・接貢使の耳目官・正議大夫等の高官がfあるいは中國に不在の時に存留通事が在f中に病死した場合には、海防官が琉球館に参り、存留通事が欠けて職務遂行に支障があることを見て取り、布政司・督撫兩院の許可を得て海防官の判断で帶f中の「勤學・留学生」の優秀な者を選び「代官存留通事」として任命して補任したもののようである。存留代官は代官存留と同じである。代官存留通事の職務は存留通事と同じである。
 存留代官の費用は貳拾兩であったことが知れるが、この貳拾兩は琉球館に於ける職務遂行に伴う諸々の費用かとも考えられるが、具体的には未詳。
 尚、貳拾兩の使途については、代官存留簿なるものを作成して、事後算用座に提出したようである。
○[金振]
 雍正六年戊申二月初一日、進貢の事の為に命を
 受
奉けて二號船小通事と爲る。耳目官毛鴻基奥平親雲上安三・正議大夫鄭秉彜大嶺親雲上等に随ひ、本年十一月二十二日に、本國に在りて開船し、馬

歯山に到りて風を候つ。十二月初一日、順風あるを見て、彼の山より開洋し、本日初六日定海に到
り、十八日、柔遠驛に安挿す。
 次年己酉正月初二日、不意に新存留通事の蔡文海高良里之子親雲上が沾風寒病を得て而して故す。此れに因り耳目官・正議大夫・引禮通事等商議して、今存留員缺す。必ず須からく人ありて頂補すべし。公事を辧理する爲めに該の副通事金振をば頂補して、例に照らして存留在館して看守せしめん事を以って、禀報したれば、海防廳は此れに據
布政司 差し出 とりつひ 申しあげ
りて、藩憲に呈クし、[布政司が]院憲に轉 で詳 たれば、本月十七日に、憲臺の鈞諭を蒙りて、存留官と爲り、在館すること三年にして、綵緞貳疋・青綢壹疋・絹壹疋・毛青布陸疋を欽賜せられ、跟伴肆名は毛青布陸疋を賜わる。公事を全く竣はり、庚戌六月十八日、五虎門をば開船し、二十三日、那覇港に到れり。(「那覇市史・家譜資料二(上)八一頁「金振」)
○存留通事が病故した場合には、即ち耳目官・正議大夫・引禮通事の進貢使者の高官連が相談して補任して存留官を任命したが、その効果は、福防廳、布政使司、督撫等の承認を得た後に発生した
もののようである。
○雍正十一年[一七三三年]十一月二十九日慶良間島へ漂着破船した朝鮮人男女十一人を十二年三月九日に仕立船をもって中國に送還した時の記録である「朝鮮人送越候日記」中の「唐往還勤方次第書」に存留通事の職務に関して瞥見できる次の記録がある。
一、去年三月九日、那覇出船、同日、慶良間島阿
どまり つかまつ そうろうところ あ
波連泊 着船、翌日十日、出船仕  り候 処、風相
か どまり
い替わり、同日久米島兼城泊 參着、同廿九日出船、
しおかけ いかり
四月四日福寧州内三砂と申す所へ潮掛、翌日碇 を
しおかけ
起こし、同日館頭潮掛、翌八日怡山院參着、則ち、
まい そうろうだんお ひきあい つかf安鎭総兵へ朝鮮人送り參り候  段御引合い仕ま
そうろうこと
つり候  事
つか そうろうこと
一、同十一日、f安鎭諸衙門参館仕まつり候  事
よし
一、同十二日、福州へ御船乗り入るべき由、海防
なら
官サびに河口通事・存留宇地原親雲上、御船へ参
そうろう
り申し聞かされ候 間、則ち碇を起こし林浦も潮
つか そうろうこと
掛、次十三日木之下へ參着仕まつり候  事
なら
一、同廿五日、戸部サびに河口通事・存留宇地原
 さ こ つみに おあらた そうろうこと
親雲上、差し越され、積荷御改めこれあり候  事
・・(「琉球王国評定所文書・第一巻」「朝鮮人送越候日記」中の「唐往還勤方次第書」一二〇頁)
○右の記録により存留通事の職務に
@福州の琉球館より海防官とともにf安鎭まで赴き、内港への入港が許可になったことを伝達すること
A戸部ならびに河口通事とともに船に参り積荷改めがあることを予め知らせること。
のあることが知れる。
○[蔡肇業]
 嘉慶五年[一八〇〇年]庚申二月初一日、進貢の事の爲めに、在船通事と爲り、耳目官向必顯伊計親雲上・正議大夫阮翼浦崎親雲上等に随ひて、貳號船に


坐駕りて、本年十月二十日、冊封寳舟の二隻及び進貢頭號船とともに一齊に那覇をば開船し、馬歯
ま か
山に到りて風を候ち、二十五日彼の地をば開洋す。
十一月初三日、fに到り、辛酉[嘉慶六年]公務をば全

く竣はり將さに本國に歸へらんとするのとき、但だ存留通事の毛超群奥間里之子親雲上の病死するに因りて、進貢及び[冊封使の]護送員役が海防廳にそ
かけたところをおぎう
の缺を頂補 せられんことを呈請したれば、
ゆる ここ お
本月初三日、其の請ふ所を准されたり。是に於い
な ま とど 処  理
て仍ほ復たfに留まりて其の職を辧理す。時に皇

上の綵緞壹疋を賞賜するを蒙り、跟伴五名も亦た

綵緞各壹疋を賜はる。且た接貢大通事の林家槐阿

波連通事親雲上の病故するに因りて進貢正副使の令を蒙りて、本職を兼帶して其の職を署す。公務
お の
をば全く竣はり二十五日に驛を離れ舟に登る。五月二十一日に五虎門をば開船し二十七に歸國す。
ゆる
 員役等の請ふ所の呈文及び海防廳の准す所の移文をば左に記す。
○具呈す。琉球國進貢護送都通事蔡清派等は、[存留通事の缺があるので]尅Iして頂補すべきにつき、[福防廰より督撫兩院に]詳明して以って[琉球館の]公務を全ふせしめ以って
やすん 懇 願
遠人を柔 ぜしめられんことを懇恩する事の爲めにす。
せつにおもう 受け
 切 に、派等王命を奉て進貢せんとfに來るが、

國に在いて存留通事毛超群一員を派撥して存館留f
はか [マラリア] かか
せしむるも、擬らずも瘧腫病症に得沾り、四月初
お 報告説明
に于いて身故せしことをば報明したること案に在
召 り。但だ、存留は留f存館の員にして、各憲の傳
喚 とも
喚するを廰くと及に[琉球館の]事務を管理するに係り、
あら 無能な人
責任は輕きに匪ざれば、乏人・ヒ主[ヒは専なり。専主・自分の

思いどおりにする。専断ー「大漢和辭典」]を容れざるなり。派等は再
協 議
四、公集して計議するに惟だ摘回の二號船の在船
有 能
通事蔡肇業の一員あるのみなり。材幹にして敏捷、
熟 練 勤勉で謙虚 た
諳練していて勤謹 なり。存留通事の任に堪勝ふる
処 理
なり。其れをしてfに留めて[琉球館の公務を]辧理せしむ
事 情 か
べし。頂 補 の情 節を將って國に還へりて弊國の
報告し説明 のぞ ほか
國王に回明 するを除くの外、情を合わせて、呈も
なさけ ゆる 報告説明
て大老爺に恩もて、准されんことをば上憲に詳明
もっ    好都合
せられ、以て分別して造冊するに便ならしめ、奉
あやま な
公してxること無からしめ、遠人の徳を戴くこと
こいねが
不朽ならしめられんことを懇 ふものなり。切に呈す。
嘉慶六年肆月初参日、具呈せしは琉球國進貢護送都通事の蔡清派等なり。
○福州南大海防分府を署して水利を兼管する加五
とりつ
級紀録十次の晋、轉 ぎて[督撫兩院に]詳したる事の爲めにす。
受けと
本年五月二十三日に[海防廳の晋が]蒙 りたる護理糧道た
る憲岳の憲札にいはく@
受けと
[護理道の憲岳が]本年五月初九日に奉 りたる總督部堂の批によればA
本護理道の[第二の]詳呈にB
琉球の進貢存留留通事の毛超群が病故したれば、請ふらくは、二號船の在船通事蔡肇業を以って存留通事に頂補せられんことを
以上の趣 受け玉
[との第一の詳呈である」縁由をば[提出したれば、督部堂より]批を奉 はる
命令 むねのとほりしたがは な
に「詳の如く飭して遵 しめられよ。仍ほ
ま 提出
撫部院の批示を候たれよ。[第一の詳とこの批とを]クせられたし。」とあり。[仰せにしたがひて第一の詳文と批とを第二の詳文にしたためて提出するものなり]
Bとあり、
Aとあり。
受け玉
又た、[本護道が]巡撫部院の汪の批文を奉 はるに「詳
命令 むねのとほりしたがは な
の如く、飭して遵 しめられよ。仍ほ督部
ま 提出
堂の批示を候たれよ。[第一の詳文とこの批とを]クせられたし。
」とあり。
以上の趣 以上の趣承知仕れり よろしくただち 申し送
各、等因あり。[本護道]奉此 。合 就 に行 りて
ここに 申しつ
知らすべければ、爲此、[海防廳の]該の吏に行 ければ
ただち とりつ むねのとほり守りおこなは即便に該の夷官に轉 ぎて飭して遵照  しめ
たが な
られたし。違ふこと毋かれ。
以上の趣 以上の趣承知仕れり よろ ただち
@との等因あり。[海防廳の晋]蒙此 。合しく就 に
とりつ 移文 ここに こしら 申し
轉 ぎて移すべければ、爲此、移を備 へ貴司に行
送 ただち むねのとほりまもりおこなふ すべ
  れば即便に遵照   べし。須からく移する者に至るべし。
  右は琉球國長史司に移す。
嘉慶陸年陸月初三日、移(「那覇市史・家譜資料二(上)三四四頁)
○存留より申し越し候状書き付け
@国王へ御機嫌伺い(挨拶状)
ごしょいんあたい お取 次  じょうらん そな
 本文、御書院当 御取次ぎ、上覧 に備ふ。
いっぴつけいじょうつかまつ そうろふ
○一筆啓上 仕 り候。
うえうえさまますます ご きげん ご ざあそ きょうえつぞん たてまつ
上々様倍  御機嫌よく御座遊ばされ恐悦 存じ奉
そうろふたいしんこく ごたいへい かんちゅうべつじょう ご そうろふ わたくし
り候。大清國御太平、館中別状御座なく候。 私
こと やくつぎ う と ざいきん つかまつ もう そうろふ みぎ おとど
事、役次請け取り、在勤 仕 り申し候。 右御届
もう あ ため か ごと ご ざそうろふ こ むね
け申し上ぐべき為めに斯くの如く御座候。此の旨
よろ よう ごひろうたの たてまつ そうろふ きょうこうきんげん
宜しき様御披露頼み奉 り候。 恐慌謹言。
 四月廿六日[道光二十三年、一八四三(参照:考察)]
    普久嶺里之子親雲上[存留通事金邦俊]表御方
御取次ぎ衆
A接貢船来往、御物調達状況についての在番奉行、御目付役への報告
しん こ おぶぎょう しん お めつけ おとど およ
 新古御奉行・新御目付御届けニ及ぶ
おぼえ
  覚
せっこうせん ぎ きょねん しゅっぱん
一、接貢船の儀、去年九月九日那覇川出帆、追い

風好しく唐に如き直乗す。同十三日乍と申す外山
か とり いかり おろ
見懸け、酉時分定海に碇を卸す。同十四日、同所
いかり お
碇 を起こし五虎門乗り入れ、怡山院参着。同七日
あ 即 日 いかり おf安鎭御改め相い済み、則日碇を起こし、同十八
つかまつ
日南台着船。同十九日封堵珍盤、安挿仕 り、同
おろ
廿三日諸衙門参官。同廿八日御物并びに自物卸し
取り、十月三日開館願いの禀、海防官へ差し出し
そうろふところ
候 処、同六日布政司・海防官より商売御免の告
そろ そうろふ つかまつ そうろふ
舟出し揃ひ候 に付き、同十日開館仕 り申し候。
おかい もの ぎ
一、蘓州御買い物の儀、丁鳳書と申す商人へ申し付けられ、十月十六日蘓州に差し立ち、三月廿九
までととの きた そうろふ
日より四月九日迄調 ひ来り候 に付き、同廿四日竣を報じ、同廿五日清冊差し出し、同廿六日看鑑
まで おものなら
し、同廿七日より同卅日迄、御物并びに自物積み
つかまつ
入れ、五月朔日官に辞し、同二日離驛登舟仕 り
そうろふ
申し候。

一、福建省洋面へ賊船多く相い集まり横行これあ
そうろふだん き およ よし
り候 段、お聞き及ぶ由にて、兵船の数拾艘御作

ご ざそうろふ
事これ有らせらる事御座候。
そうろふあいだ こ むねおお あ
右の通りお届け申し上げ候 間、此の旨仰せ上げ
くだ そうろふ
られ下さるべく候。以上。
 辰五月六日[甲辰:道光二十四年・一八四四]
普久嶺里之子親雲上[存留通事金邦俊]表御方
 御取次衆
B時憲書(暦)送付についての報告
  覚
憲書弐拾壱冊
そうろふ
右、当年の憲書、布政司より例の通り下され候 に
つ ちょうだいつかまつ あ そうろふ
付き頂戴 仕 り、大宿役者へ相い渡し置き申し候。
こ お とあいもう あ そうろふ
此の段御問合申し上げ候、以上。
 辰四月廿六日[甲辰:道光二十四年、一八四四]
普久嶺里之子親雲上[存留通事金邦俊]
C福州に於ける麻疹・疱瘡の流行についての報告
 ご ぎ ごろ は  や
御当地の儀、去年十月比より所々麻疹相い時行り
そうろふところ ごろ あ そうろふよし
候 処、四月中旬比より漸々風気相い去り候 由
うけたまわ そうろふ も こ そうろふ
承 り申し候 。然る処、若し風気移り越し候
はか がた ご ざそうろふあいだ むねおお あ くだ
も計り難く御座候 間、此の旨仰せ上げられ下さ
そうろふ
るべく候 、以上。
 辰五月二日
普久嶺里之子親雲上[存留通事金邦俊]
 右の通り承り届け申し候、以上。
辰五月二日
伊志嶺親雲上[進貢耳目官向紹元]表御方
 御取次衆
D大夫(進貢副使)神山親雲上の死去についての報告。
 上覧に備ふ。新古御奉行并びに新御目付お届けに及候也。
かな
大夫神山親雲上の事、病気養生相い叶はず、今月
いた そうろふ こ だんおお あ くだ
朔日死去致され候 。此の段仰せ上げられ下さる
そうろふ
べく候 、以上。
 辰五月四日
表御方
  御取次衆
E去年帰国した小唐船(進貢二号船)などの行方不明事件に関する福州側の情報。
 本文、右同断[本文、御書院当御取次、上覧に備ふ]
なら らいちゃく な
去年帰帆の小唐船并びに馬艦船、来着これ無き候
おつか
に付き、接貢船より探問の咨御遣はされ候処、馬
お そうろふよし
艦船の儀、大島へ漂着致し居り候 由、接貢船那
みぎりうけたまわ おさが ごよう
覇川出帆の砌 承 り候間、馬艦船御探しは御用
しゃ むね おかまい
捨ならるべき旨、御構いの官人へ申し上ぐべき由
おお わた そうろふ つ さっそく あ
仰せ渡せられ候 に付き、渡唐早速、右の禀帖相
ととの
い調 へ、阿口通事・私一同ニ布政司へ参上し、差
そうろふ もっと あ
し出し候 。尤 も小唐船は着場相い知らず候間、
いよいよ おお つ た むね たんもん
弥 、御探し仰せ付けられ度き旨、探問の咨差し
そうろふみぎり そ
出し候 砌 、口上取り添へ差し出し申し候。小唐
とうおもて あ
船の様子聞き合い候へども唐表へも着場相い知り
くだ
申さず候。此の旨仰せ上げられ下さるべく候、以上。
 辰四月廿六日(甲辰:道光二十四年、一八四四)
    普久嶺里之子親雲上[存留通事金邦俊]
 右の通り承り届け申し候、以上。
神山親雲上[進貢正義正議大夫魏恭儉]
伊志嶺親雲上[進貢耳目官向紹元]
 表御方
御取次衆
F琉球館の把門官(門番)詰所及河口通事公事所の普請についての要請書
つめしょ あ
○琉館屋把門官詰所、相い破られ候に付き、同所
まで ふ し ん
并びに阿口通事公事所迄も普 請仰せ付けられ候段、

存留普久嶺里之子親雲上より別紙の通り 申し来し候間、此の段申し上げ候、以上。
 辰五月(甲辰:道光二十四年、一八四四)
    足長史
    奥間里之子親雲上
    長嶺通事親雲上
    百名親方
○上覧に備ふ。
琉館屋把門官詰所相い破られ候に付き、去去年よ
つかま そうら あ ご ざなくそうろふ
り普請願い仕り候へども、お取り揚げ御座無候、去年に到りては、接貢船渡唐の上、把門官詰所崩落し、相公ども住居の所これ無き候に付き、此の節
かな
普請仰せ付けられず候ては叶はざる事にて把門官
まで
詰所并びに同所右表へ阿口通事公事所迄も普請仰せ付けられ候様、把門官より布政司・海防官へ普
よし
請願い申し出でられし由にて、琉球方へも願い奉
も たの
り候様、把門官より阿口通事を以ってお頼みこれあり候に付き、勢頭・大夫御案内の上、願い奉り
いよいよ そ
候処、弥 、願い通り相い済まし候段承り候。夫より把門官詰所普請取り付け、右表へ阿口通事公

事作り調へ候。入り目両銀の儀は、布政司より成
くだ よしうけたまわ もっと
し下さるる由承 り申し候。尤 も阿口通事所壱軒長さ五間・横弐間作り置き候次第、表御方へも
よろ よう  と はか おお くだ
宜しき様お取り計らい仰せあげられ下さるべく候。
さよう おこころえ と あ いた
左様 御心得られ、此の段お問合い致し候。以上。
 辰四月廿六日(甲辰:道光二十四年、一八四四)
普久嶺里之子親雲上[進貢存留通事金邦俊]
怱役
 長史
H琉球館の菩薩の前に位牌殿を建てる件についての依頼書。
かんじんぎん も みぎおもて
 館屋菩薩御前へ、勧進銀を以って宮の右表 へ位
いた牌殿建立致し、余銀これあり候はば、拾アも修補
なによう ご ざ か
仰せ付けられ候ては何様御座あるべき哉。去去年
とあい こ そうろふところ
存留よりお問合申し上げ越し候 処、当時、唐表、
つ みぎよう など
阿蘭陀人兵乱に付きては、右様普請修補の事等、
ごつごう む あ おう いた ま じ さきのじせつ み あ
御都合向き相い応じ致し間敷く、先時節見合いに
よ さしず えそうろふうえ
寄り、お指図を得候 上、位牌殿建立、拾ア修補これあり候様仰せつけられ候段仰せ渡し置かれ候。
まで
然る処、勧進御物、当年迄番銭七百弐枚余に相い
及び、其の上、阿蘭陀人兵乱も相い治まり申し候
せつ
間、御模の通り、此の節琉位牌殿建立仰せ付けら
なによう ご ざ か かつ また
れ候ては何様御座あるべき哉。且つ又た左右拾ア
ひさし そうたい あ よわ
の儀も年来久敷き御普請にて怱体相い弱ミ候処、
なおさら もはや あ
去年七月大風の時、猶更吹破せられ、最早危相い
こ ま も
見え申し候間、是れ又た勧進御物を以って御修補
た ぞん たてまつ
仰せ付けられ度く存じ奉 り候。此の旨仰せ上げられ下され候。以上。
 辰四月廿六日[甲辰:道光二十四年、一八四四]
普久嶺里之子親雲上[存留通事金邦俊]
ごぞうえい
 右の通り勧進御物を以って琉位牌殿御造営仰せ

付けられ、余銀これ有り候はば、左右拾アも是れ
ま た
又た御修補仰せ付けられ度く存じ奉り候、以上。
 辰四月廿六日[甲辰:道光二十四年、一八四四]
神山親雲上[進貢正議大夫魏恭儉]
伊志嶺親雲上[進貢耳目官向紹元]
  表御方
  御取次衆
I接貢船が慶良間島人を載せて福州へ到着した顛末についての説明書。
上覧に備ふ。御奉行・御目付御届けに及ぶ。
  覚
渡嘉敷間切阿波連村
金城筑登之
同間切同村
大城にや
同間切同村
かな玉城
同間切同村
次郎当間
同間切同村
仁王金城
右の者どもの事、去年接貢船那覇川出帆、前慶良
ゆきならび みぎり
間走並候砌、慶良間舟壱艘、唐船へ漕ぎ着き候処、

波に打ち返され、右五人は唐船へ相い懸かり候に
あ は
付き、船方の者より救い揚げ、外壱人者波に引き流され候。右の者ども問い尋ね候へば、御問合書取
に、漕ぎ来たり候処、右次第存外の段申し出候に
しお か おろ
付き、慶良間島へ潮 懸け致し、右五人は相い下し候様、船頭・佐事どもへ申し渡し候処、其の時の
まか な
風波にては慶良間島へ乗り行き候儀罷り成らず、
ぜ  ひ ただちにのせ つかまつ よ いず
是非なく、直 乗 仕 り申し候。これに依り、何
ふねきょじゅう
れも吟味の上、右の者ども唐滞在中、船居住 にて
ほか む はいかいいた がた外向き一切徘徊致さざる様、取り締まり方船頭へ
いた
堅く申し付け、此の節接貢船より帰帆致され申し
そ お とあい
候。別紙取り添へ此の段御問合申し上げ候。以上。
 辰四月廿六日[甲辰:道光二十四年、一八四四]
  普久嶺里之子親雲上[存留通事金邦俊]
うけたまわ
 右の通り承 り届け申し候。以上。
辰四月廿六日
神山親雲上[進貢正議大夫魏恭儉]
伊志嶺親雲上[進貢耳目官向紹元]
 表御方
  御取次衆
J同上の顛末につき慶良間人金城筑登之らの釈明書
   覚
ながら
恐れ乍 申し上げ候。私どもの事、去年接貢船那覇

川御出帆成され候時、お問合書取に、渡嘉敷間切
阿波連村玉城筑登之、一同に乗り組にて島より漕
ゆ つ
ぎ出し、唐船へ走き付き候処、存外、波に打ち返され候に付き、右玉城は波に引き流され、私ども
か がた つかまつ
の事は唐船へ相い掛かり、あり難く助命仕 り申
よう な くだ
し候。此の旨宜しき様お取り成し下さるべき儀願

たてまつ
い奉 り候。以上。
 辰三月(甲辰:道光二十四年、一八四四)
渡嘉敷間切阿波連村
金城筑登之
同間切同村
大城にや
同間切同村
かな玉城
同間切同村
次郎当間
同間切同村
仁王金城
K薬草の苗核の収集を続けるため、なお暫く福州に滞在したい旨の備瀬筑登之親雲上の要請書。
上覧に備ふ。
   覚
備瀬筑登之親雲上
さるあき がた た いた
右は、去秋、薬種苗核求め方の爲めに渡唐致し、
ほうぼう あ こ
方々差し越し苗核相い求め此の節接貢船より差し
わた
渡し候処、爾今太分残品これあり。滞在致さざれ
がた あ たっ い
ば求め方相い達しがたき段申し出で候。右に付き
はか かな
ては、苗核求め出し候様取り計らい申さずは叶は

ざる事にて、勢頭・大夫御案内の上、滞在申し付
かれこれ つかまつ
け、薬草木苗核求め方、彼是相談仕 り申し候。
おお あ くだ
此の旨、仰せ上げられ下さるべく候、以上。
 辰四月廿六日[甲辰:道光二十四年、一八四四]
普久嶺里之子親雲上[存留通事金邦俊]
うけたまわ
 右の通り承 り届け申し候間、此の段申し上げ候、以上。
 辰四月廿六日(甲辰:道光二十四年、一八四四)
        神山親雲上[進貢正議大夫魏恭儉]
伊志嶺親雲上[進貢耳目官向紹元]
 表御方
  御取次衆
L留学生のうち滞在期限七か年を過ぎたものはいない旨の報告。
おお お勤學人滞在年数の儀、七ケ年限り仰せ定め置かれ候
あ そうろふかた いた
に付きては、年限相い過ぎ候 方、帰帆致され候
さるたつどし わ おお こ お おもむき
様、去辰年、分けて仰せ越し置かれし趣 承知仕
り候。これに依り、相い糺し候処、年限過ぎ候者
まか お
罷り居り申さず候。此の旨仰せ上げられくださるべく候。以上。
 辰四月廿六日[甲辰:道光二十四年、一八四四]
普久嶺里之子親雲上[存留通事金邦俊]
 右の通り承り届け申し候。以上
辰四月廿六日
        神山親雲上[進貢正議大夫魏恭儉]
伊志嶺親雲上[進貢耳目官向紹元]
 表御方
  御取次衆

(『琉球王国評定所文書・第一巻』「接貢船帰帆日記」@〜Lの見出しは西里喜行の解説に依拠。候文は読み下して読みやすくした。四七六〜四八一)


○参考[金邦俊]
道光二十二年壬寅二月朔日進貢の事の爲めに頭號船存留通事と爲り、耳目官向紹元伊志嶺親雲上・

正議大夫魏恭儉神山親雲上に随いて

九月二十一日、那覇を開船す。はからざるも、洋
   中屡々逆風に遭ふ。

二十八日、海壇観音v地方に漂到す。
   俊随いで即ちに貢使員役等と會同して細さ   に商議を加えて由を具して呈もて請ふ。”   齎捧したる表奏咨文・進貢方物をば、旱を   起ちて館驛に護送し曁び粮食を賜給せられ   んことを”と。随ひで允准を蒙れり。

十月十一日起程して、十五日、驛に到りて安挿す。
   其の舟、次年[道光二十三年]四月五虎門   に到り、内港に漸進す。公事妥完し、五月   回國す。
但だ、俊、存留在館して
次年甲辰[道光二十四年一八八四]五月四日、公   務全く竣わり、離驛登舟す。
(『那覇市史・家譜資料二(上)資料編第一巻六」頁九十三、「金氏家譜・金邦俊」)
◎考察
 右の@の「四月廿六日」の記年について
存留通事金邦俊がfの琉球館に滞在しているのは、家譜資料によると、道光二十二年十月十五日より道光二十四年五月四日までの間の約1年六か月ぐらいである。 「私事、役次ぎ請け取り、在勤仕り申し候」とは、前存留と引き継ぎをして新存留として勤めに精励しております、という意味に解して良いと考える。金邦俊が在f中に四月廿六日を迎えているのは道光二十三年と道光二十四年の両年あるが、二十三年は前存留と引き継ぎして新存留として勤めを開始した年であり(次ぎの表参照)、二十四年は存留を引き継いで帰国する年である。  従って、右の「四月二十六日」は道光二十三年であると考える。
道光二二年










九月二一日 進貢船・200名・那覇開船
十 月一五日               琉球館安挿




        道光二二年一一月二日
     進 病 水 存 漂 前 遭   開
             貢 故 梢 館 風 年 難  館 進
  官 直   存 者 接 附 貿
          伴 庫   留 水 貢 搭 易 貢
           二〇  三 官 先 存 者
一  伴 案 留    道光二三年五月八 日
  一六内 官 四
水 伴
  梢 伴
  二 六
@ A B C D E F
道光二三年

五月一五日   離驛登舟
      200ー(@+A+B+C+D)
  +(E+F)=168名が歸國


道光二三年九月              接貢船・89名・那覇開船
                到f
         道光二三年十 月十 日
十 月二三日   福州を出発   前 前     存     開 接
             年 年     留    館
                  度 度     官   貿 貢
道光二四年二月  北京出発   派 存     伴   易
         京 留               船
  回 官         道光二四年四月二四日
官 伴     六
  福州到着 伴
  二〇
  一六
    @ A     B



五月初三  五月 四日離驛登舟
(歴代寶案)   89 ー( B )+(@+A
   =119名が歸國


(「歴代寶案」「家譜資料」)

○[道光二十七年・一八四七年]
一、福州琉球館屋の儀、大切なり。勅書・御拝領
ほか
物・表文・貢物、その外、御当地[琉球]の御用物等
これ つ ふさぎ
の格護之ある事候に付き、第一に盗賊の防 、館中
よくよく
の取り締まり等を能々入念にすべき事
一、御用物又は渡唐の者ども、交易の唐産・和産、
そうらひ おさしさわり な
異国人どもへ差し知らせ候 ては至って御故障成り立つべく館屋にては勿論、荷役積み入れの節も
よくよく こ
能々その格護之れあるべき事
そうら
  右兩条は入念すべき儀は申す迄もこれなき事候
えども、福州の儀、会船所は殊に当時は異国人ど
は  や よしそうろふ
も入り込み罷り在り、盗賊も相い時行る由候 に
つ かれこれ いよいよ な そうらひ かな
付き、彼是、弥 其の慎み之れ無き候 ては叶はざ
そうろうふところ そう
る事候    処、万一大形あい心得、何か届け兼ね候
ろふ おんおもひやりおぼし め
  儀もこれあるべきかと、毎度、御念 遣思 召さ
そうろふ おもむき そ
る事候 条、前件の趣等、其の意を得られ、当時
から な よ
柄猶ほ入念に随分無事故を以て首尾能くこれあり
そうろふよう そうろふ こ むね
候 様、精々勤務致さるべく候。此の旨、分けて申
おさしず そうろふ
し渡すべき旨、御指図にて候 以上。
 未八月五日[道光二十七年・一八四七年]
未秋走
渡唐役者中
おお わた お そうろうふあひだ
 右の通り仰せ渡し置かれ候   間、其の意を得ら
そうろふやう
れ、万事首尾よくこれあり候 様取り締まり向き
など それぞれ さしず いた むね お さしず
等、各 よりも時々指図致さるべき旨、御指図にて候、以上。
つけたり 致  書 だいごとに
 附  、本文、存留方へ致帳し留め置き、毎代 、
よろ つぎ わた と しま む もどうしそうろふ合しく伝失なく次ぎ渡し取り締まり向き最通候  様申し渡され候。
 未八月[丁未:道光二十七年一八四七]
勢頭[正使]
大夫[副使] (「琉球王国評定所文書・第三巻」三七三頁「丁未接貢船仕出日記」)