都通事
○[阮昌祖]
 雍正二年、甲辰進貢耳目官毛氏金城親雲上安承、正議大夫蔡渊志多伯親雲上、渡唐の時、六月二十日、命を請乞して讀書習禮の事の爲に、存留通事
したが
蔡培福地親雲上に随 ひて十一月十五日那覇をば開洋しfに到る。
 雍正七年巳酉、在fの時、正議大夫鄭秉彜大嶺
したが
親雲上に随 ひて上京す。是の時、都通事程允升名

護里主親雲上臨清に在いて病故せるに因り、而し

て公事を缺くことあり。耳目官毛鴻基奥平親雲上
相  談 つぶ そ しさい
等、傳譯通事鄭任鐸と商議して、細さに其の由 を
も これ これ よ
將って、之を提督常老爺に達す。是れに由り、九月二十五日、提督常老爺の鈞諭ありて、都通事職
こう
を署行し、方物を奉貢するを蒙る。

 雍正七年巳酉十一月十六日、公事を全く竣わり

京を出ず。雍正八年庚戌正月二十五日、福建に回へり、六月十八日五虎をば開洋して、本月二十三日に至りて歸國す。(存留すること七年なり)
(「那覇市史・家譜資料二[上]一七九頁)
○都通事が赴京の途上にて病故した場合、耳目官等と傳譯通事とが相談し、都通事の職を仮りに行う「署行都通事職」を務める者を選任して、その子細を提督に申し上げて、その許可(鈞諭)を得て効力が生じて、署りの都通事職を行ったもののようである。
○右の「家譜資料」により都通事の職務に方物の献上する役目があったことが知れる。