把門官
○琉官出遊
 琉館[琉球館・柔遠驛]の護官を把門官と名づく。文武各
とも
二員。琉人の[琉球館への]出入を査勘すると及に[琉球人へ
つかさ きまり
の物品等を]分買して支給する等の事を掌 どる。館の法
ひる たそがれ   期限
として晝は[琉球館への]出遊を許すも昏を以って期と爲
ゆへ ほか [出入りできず] か くら
すの故に半日程の外は足跡及ばず、且つ地理に昧
あ し
ければ、遠遊するを得ず。惟だ一・二の相い識る醫師・商人を訪れるのみなり。
はて
 福州は唐の南の極なれば、邑衢、蕭寂にして鷄
ほか
犬・桑柘の外は観るに足る者なし。
 唐、惟だ杭[杭州]蘇[蘇州]のみ最も殷富とするは、地は帛緞を産し、商店は肆を列するを以っての故
いへど あ あた
なり。北京と雖 も其れ相い抗する能はざるなり。
(『琉球録話』「琉官出遊」原漢文)
○清人通貨
 福館[福州の琉球館]の把門官が[諸物を]分買して支給する
つかさ みず
等の事を掌 どれば、琉人は親から諸物を買ふを得
ゆへ
ざるの故に清人の通貨の法を詳らかにせず。然れ

とも
ども、清人の貴賤を竊知するに、倶に銀と錢を用ひ、黄金を用ふる者なし。尤も多くは元寶錢を用
あまね
ふるなり。是れ其の國は黄金甚だ乏しく遍 く用ひる能はざればなり。貢使の北上するには、費用は皆な清主より出でて、使臣は手づから銅臭に触れ
ざるなり。(『琉球録話』「清人通貨」:原漢文)
○琉球館の把門官(門番)詰所及河口通事公事所の普請についての要請書(参照:存留通事)
つめしょ あ
○琉館屋把門官詰所、相い破られ候に付き、同所
まで ふ し ん
并びに阿口通事公事所迄も普 請仰せ付けられ候段、

存留普久嶺里之子親雲上より別紙の通り申し来し候間、此の段申し上げ候、以上。
 辰五月(甲辰:道光二十四年、一八四四)
    足長史
    奥間里之子親雲上
    長嶺通事親雲上
    百名親方
○上覧に備ふ。
琉館屋把門官詰所相い破られ候に付き、去去年よ
あ ご ざなくそうろふ
り普請願い仕り候へどもお取り揚げ御座無候、去年に到りては、接貢船渡唐の上、把門官詰所崩落し、相公ども住居の所これ無き候に付き、此の節
かな
普請仰せ付けられず候ては叶はざる事にて把門官
まで
詰所并びに同所右表へ阿口通事公事所迄も普請仰せ付けられ候様、把門官より布政司・海防官へ普
よし
請願い申し出でられし由にて、琉球方へも願い奉
も たの
り候様、把門官より阿口通事を以ってお頼みこれあり候に付き、勢頭・大夫御案内の上、願い奉り
いよいよ そ
候処、弥 、願い通り相い済まし候段承り候。夫より把門官詰所普請取り付け、右表へ阿口通事公

事作り調へ候。入り目両銀の儀は、布政司より成
くだ よしうけたまわ もっと
し下さるる由承 り申し候。尤 も阿口通事所壱軒長さ五間・横弐間作り置き候次第、表御方へも
よろ よう  と はか おお くだ
宜しき様お取り計らい仰せあげられ下さるべく候。
さよう おこころえ と あ いた
左様 御心得られ、此の段お問合い致し候。以上。
 辰四月廿六日(甲辰:道光二十四年、一八四四)
普久嶺里之子親雲上[進貢存留通事金邦俊]
怱役
 長史
○[尚敬王即位七年、一七一九年の条]向秉乾、柔遠驛を修葺するの
おく
費銀、毎年三十両を寄るの例に改定す。
 徃昔の世より琉球柔遠驛を修葺するの費銀は進貢して中華に入るの時、庫官、五主、水稍等を率領して、先ず驛館に到り、修葺完竣して上下の員役、館驛に安挿す。其の費銀三百兩なり。接貢の時に當たりても亦然り。其の費用銀一百五十兩なり。然れども費銀甚だ多し。向秉乾(當間親雲上朝斉)耳目官と為りてfに在るの時、乃ち門使呉天統を召して曰く、今番、庫官をして大いに修葺を加へしむ。此れよりして後、毎年、汝に三十兩を寄授せば、球船未だfに入らざるの暇間、預め
修葺を加ふること如何と。天統其の命に從ふ。爾よりして後、本國多く利有り。是れに由り、永く著して例と為す。(「球陽」七三九)
○本年[尚育王即位九年癸卯、一八四三]柔遠驛把門官の公署を改造し、並びに新に土通事公館を設建す。
 此の年、fに在るの員役、布司に禀請し、工を興して柔遠驛把門官の公署を改造し、併びに其の右邊に於いて、新たに土通事の公館一ア、其の長さ五間、広さ二間を造る。(「球陽」一八三四)
○本年[尚泰王即位二十六年癸酉・一八七三]柔遠驛の各處を修造する有り。
 此の年、宮上大堂の兩邊左右十ア・土墻は、去年海防官、令を奉じ籌画して、其の修葺を行ふ。且把門官の直處を改造し、其の後面に在りて、土通事の會處一アを新設す。其の長さ五間半・横四間半なり。(「球陽」二二六九)