福州府治
あ すなわ
○布政司の西に在り。即 ち宋の安撫司、元の萬戸府なり。明の洪武二年、改めて福州府と爲す。七
ひら や
年廨宇を闢き十一年火けり。二十六年に知府の廖崇徳が重建す。
 堂の南は儀門と爲す。儀門外の東は土地祠、西は寅賓館なり。儀門の南は大門と爲す。大門を出でて内に申明・旌善の二亭ありて對崎せり。其の前堂の北を穿堂と爲す。又た北を後堂と爲す。知
それぞれ
府・同知・通判・理刑の各 の宅が一區、後堂の北に列す。吏房は六ありて、堂下の左右の廊に在り。其の後ろの隙地は吏廨と爲す。

 萬暦二十八年に大門及び両廊の房科が復た火けり。署印同知の鍾大咸が重建す。
 皇清の順治十八年に樹楔[門、入口の両側に矛のように立て扉をつけ
やきこわさ
ておく木。ほこだら。]が火に燬 れり。申明・旌善[の二亭]も亦た廃せられり。(「欽定古今圖書集成M職方典七福州府部」九三〇二)