貿易  参照:開館貿易
それぞれ
○凡そ中外の商人に許すに各 其のある所の市を以ってするも、其の禁令を頒つなり。凡て難夷に
それぞれ 救 助
は各 加ふるに拯濟を以ってして而して之を遣すなり。(「欽定大清會典・巻三十九、主客清吏司」〇四〇七〜〇四一三)
○ 市易
○順治の初め定む、「凡そ外國の貢使が來京すら

ば、頒詔の後に、會同館に在いて市を開く。或は三日、或は五日なり。惟だ朝鮮・琉球のみは期限
かぎ
を拘らざるなり。部より戸部に移文して、先ず庫使を撥して収買せしめ[戸部よりの]咨覆が部に到らば[禮
告示 つか部は]示を出だして官を差わして監視せしめて公平に交易せしむ」と。
○又、定む、「外國の船の正貢の時にあらざるに、
ゆえ こと ただ
故なく私に来たりて貿易する者を、該の督撫は即
はばみおいはらふ
ちに阻遂 べし」と。又、定む、「正貢の船の未だ到らざれば、護貢・探貢等の船は交易するを許さざるなり」と。
○[康熈]三年定む、「凡そ外國の進貢は、貨物を順帶し、貢使が願ひて自ら夫力を出だして京城に帶
こと ゆる も
來すらば、貿易する者をば聽すなり。如し彼の處
お 委任
に在いて貿易せんと欲せば、該の督撫は官に委し
ま いた な
て監視せしめて擾を滋すを致す毋からしめよ」と。
○[康熈]二十四年定む、「外國の貢船の帶ぶ所の貨
受取 停止 もちきた
物は、税を収るを停し、其の餘の私に來 りて貿
こと ゆる つか
易する者は、其の貿易するを准すも、差はす所の部
受取 ゆる
員が例に照らして税を収るを准す」と。又た定む、
おわ 一 斉
「番船の貿易の完るの日に、外國の夷人をば一併
とど
に遣歸せしめ、久しく内地に留むるを得ざらしめよ」と。又た定む、「貢船の回國のときは、貨物
ゆ と
を帶びて去かしめ、其の税を収るを免ず」と。

○[康熈]五十六年の諭に「海中、東洋ならば徃

きて貿易すること可なり。若し、南洋ならば、往かしむべからず。紅毛等の國の船は、其の自ら來
ゆる した
るを聽す。欽此」とあり。旨に遵がひて議定す。「南洋・呂宋・喝喇ォ等の處は、内地の商船は概
すすみゆ
ね前去くを許さざるなり。其の外國の夾板船は其
ゆる
の前來して貿易するを聽す」と。
(欽定大清會典事例・禮部・朝貢・市易」一一八五三〜一一八五四)
○支那貿易品の専売
 琉球の支那貿易品のうちには、薩摩藩の命で専売制度の下におかれたものがあった。嘉慶二十四年(例寄八集巻七)に唐物方より公儀にて売るから私有してはならないといふて発売を禁止された品物は、虫糸・萌砂・桂皮・厚朴などで、その外にも薄紙・五色唐紙・鉛(?)・羊毛織・丹通・狸燕脂(猖燕脂又は正延紫とも書いた)、花紺青の十二品とある。これが取締まりに任ずる薩摩の唐物方の役人は、在番奉行と同一の待遇を受けるという令達がある位だから、当時貿易を主眼とした琉薩関係が推察されるであろう。その後御国許御用品十二種の外、左の二種が追加せられ、右品を長崎表へ差回す云々といふことが書かれて居る。即ち
  ト瑁 但鼈甲同爪の事
白手龍脳 但常の龍脳の事
とあって、当時の貿易品のうちで利潤が多く、且つ売上げ上景気の好いものは専売品にされたものだから、その追加や変更が屡々あったやうである。
朱粉、唐物方に取締まり云云の件が道光三年(例寄八集巻九)に出て居るのもその消息を語るものである。(「真境名安興全集・第三巻」六十五頁〜六十六「笑古漫筆」)