緑營
○清朝の漢人常備軍である各省の緑営は標が最大単位で、標は営に、営はケ(または哨)に分かれていた。このケ(千総が指揮官)は全国各地に置かれた緑営の細胞ともいうべきもの。ケより小さいのが塘、塘より小さいのが舗。この塘や舗になると戦闘任務に当たるものではなく、もっぱら公文書の取り次ぎや巡警に当たった。要するに塘ケ は、各地方に散在する緑営の分駐署を指す語で、この場合、警備屯所ほどの意。これを番所と訳しているのもいい。なお前出の提塘という語も、塘を指揮する資格ある者の意の武官名。
(「清俗紀聞2」一四七〜一四八頁・『東洋文庫』・平凡社』)
○清朝緑営の武官は、標を統轄して、総督・ 巡撫・提督・総兵官・副将・駐防將軍・河 道総督・漕運総督などと呼ばれる高級将校(といっても選任の武官は提督・総兵官・副将の三者のみ)、その下で営を指揮して参将(副将を大佐に相当するとして中佐)・遊撃(少佐)・都司(大尉)・守備(中尉)などと呼ばれる中級将校、その下で主としてケ(哨)の指揮をし千総(少尉)と呼ばれる下級将校、そして千総の下に属する最下級の武官として把総があった。「清國行政法」で把総は「わが軍曹に相当す」と注しているように、これは下士官クラスというべきもの。これを目付と訳したのは、長崎では貞享三年ごろから与力を表向きには給人といい、この給人のうちに大目付、目付とよばれるものがいたのによっていよう。つまりこの目付は長崎での用語で、江戸でいえば与力に当たるもの。(「清俗紀聞2」一四七〜一四八頁・『東洋文庫・平凡社』)